和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

奮迅25/小説「新 ・人間革命」

2013年06月01日 07時42分28秒 | 今日の俳句
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年 (平成25年)6月1日(土)より転載】

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奮迅25(6/1)
 牧口常三郎から、必ず難が競い起こると聞かされていた藤川多恵は、牧口らが逮捕された時、“先生のおっしゃった通りになった”と思った。
むしろ、仏法への確信を強め、懸命に題目を唱え、信心を貫いた。

 彼女の溶接技術も、次第に向上し、蓄えもできるようになった。

 終戦を迎え、やがて復員した夫の藤川秀吉は、一九四七年(昭和二十二年)八月、正式に学会に入会した。
そして、戸田城聖のもとで、純真に、一途に、信心に励んだ。
生きて帰れたことに、仏法の力を感じていたのだ。

 足立の藤川宅は、座談会場となり、戸田も何度となく足を運んだ。
戸田は、慈愛を注いで、藤川を育んでいった。

 「個人指導や折伏はどうすればよいのか、私の側にいて覚えていきなさい。
信心は、実践のなかで学び、身につけていくものです」

 藤川は、その通りに行動した。
戸田が蒲田の座談会に出席すると聞けば、自転車で三時間かけ、訪ねて行った。
しかも、新来者と一緒に駆けつけたのである。

 また、戸田が仙台に行くといえば、自分も仙台へ向かった。
急なことなので、多恵が着物を質に預け、旅費を工面した。

 多恵は、「帰りの汽車賃が足らなければ、歩いて帰っておいでね」と、明るく言って、笑顔で夫を見送った。

 彼は同志の激励にも歩き回った。
靴がすぐにすり減るので、安いわらじを履いて歩いた。

 藤川は、戸田がそうしたように、後輩と共に指導や弘教に走り、活動の基本を、行動を通して教えていった。
人材育成とは、一緒に動くなかで、学会の精神と活動の在り方を教えていくところから始まる。

 そして、五一年(同二十六年)に、“わらじ履き”の支部長が誕生するのだ。

 藤川夫妻は、ただただ広宣流布に生き抜いた。
そこに一点の迷いも、逡巡もなかった。
いな、その人生を無上の誉れとし、誇りとしていたのだ。
それが、草創の支部長・婦人部長の心意気であった。




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