和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

勇将21・小説「新 ・人間革命」

2013年03月08日 06時47分38秒 | 今日の俳句
      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年 (平成25年)3月8日(金)より転載】



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勇将21(3/8)

 四国の五大学会の合同結成式で、長野栄太は山本伸一に尋ねた。


 「ハンセン病で苦しむ人たちが多い国に渡って、患者を救いたいんです。
でも、すぐに行動すべきかどうか、迷っております」


 「妙法の青年医師らしい心意気だね。
しかし、決して焦ることはないよ。当面は日本にいて、さらに医学の道を究め、しっかりと基礎を固めることが大事ではないかと思う」


 長野は、この指導を胸に医師としての力を磨いた。
そして、高知赤十字病院の皮膚科副部長、愛媛県立中央病院の皮膚科医長を務め、一九七五年(昭和五十年)から、ハンセン病の国立療養所大島青松園に勤務した。


 大島は、香川県・庵治町にある瀬戸内海に浮かぶ島で、四国研修道場の目の前にある。


 長野は、高松市に住み、船で島に通った。


 彼がハンセン病の研究、治療に情熱を注ぐようになった背景には、両親の姿があった。


 一家で最初に信心を始めたのは、母親であった。
父親は、かつて満州(現在の中国東北部)で医師をしていたが、戦後、引き揚げて来ると、その医師免許は、日本では通用しなくなった。
やむなく、職を転々としたが、暮らしは貧しく、夫婦喧嘩が絶えなかった。


 母は、学会員から、「あなたが変わらなければ、家庭は変わらないわ。
その自分を変えるための信心なのよ」と聞かされ、五六年(同三十一年)に入会した。
しばらくして父も信心し、夫婦で学会活動に励んだ。
班長、班担当員となった両親が担当したなかに、大島青松園で暮らす人たちがいたのである。


 ハンセン病に対しては隔離政策が取られ、罹患した人たちは、人権を奪われたに等しい生活を余儀なくされていた。


 社会には、ハンセン病は治らず、すぐに感染する病であるとの偏見があった。


 無知は偏見を生み、偏見は差別を育てる。


 長野の両親は、「最も苦しんでいる人を救わずして仏法はない!」と、足しげく大島に通った。
医師であった父は、ハンセン病の菌は感染力が弱いことをよく知っていたのだ。


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