






「おかしゃんね、時々(ほんの時々)、突然熱くなるんらよね






事の起こりは・・・・先々月、お茶の先生から薩摩藩英国留学生の記念館に行かれて感激したお話を伺ったこと。 ちょうど翌日は紅福父もお休みだったのでドライブがてら行ってみることに


串木野羽島・・静かな漁村の一画に立派な記念館ができていました。その時の私の薩摩スチューデントに関する知識と言えば、「薩英戦争後、薩摩藩の命を受けた若き藩士たちが英国近代技術を学ぼうと「国禁を犯して」渡英し、後に各方面で日本の近代化に大きく貢献したと言うこと。 留学生たちの中には初代文部大臣の森有礼、大阪の経済に貢献した五代友厚、後にカリフォルニアのワイン王と呼ばれた長沢鼎らがいた」 これくらい



館内には一人一人の経歴が紹介されていてとても興味深かかったですよ

この写真の左奥に町田久成の肖像画が展示されていました。 ドキッ







資料を読むと初代国立博物館の館長と書いてあります。まあ、こんな方がいらしたのね



さて、こちらが薩摩スチューデントの写真です。 町田久成は左のグループの真ん中に座っている方です。

町田久成に気持ちを残したまま、館内を巡り、二階のデッキへ
二階は船のデッキを模して作られています。

見つかれば死罪になるかも知れない。・・そんな危険を冒しながらも強い使命感と冒険心に燃えて皆ここから旅立ったのですね。
この時町田久成は28歳。 長沢鼎はなんとわずか13歳です


この地で息を潜めて2ヶ月待機しての渡英・・・・一人一人の気持ちを考えると感慨深いものがあります。

帰ってからも町田久成が気になってをネットで検索



「 ぼくは興味ないれす


それはそうらよね






ポテトサラダは以前ご紹介した黄爵で作ってみました

ずっと下
↓
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まだまだ
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ネットで町田久成を検索すると・・・・・これが実に面白いんです








韻松亭




あったのはこの中古の本・・・なんと1円



この本は博物館の成り立ちとそれに関わる人々に関して書かれた本ですが、筆者の町田久成への思いが随所に感じられます。
「いまに残る東京国立博物館の膨大なコレクションは、急激な明治の欧風化と開発の波の中で、町田久成が守り抜いた日本人の大きな遺産でもある。そこには博物館づくりを通して、新興日本の国威と特色ある民族の伝統を欧米に示したいとする、若い町田久成の熱い思いが込められている」 (序文より)
読み進めると、博物館の完成までがどんなに困難な道だったのか、そして町田久成の貢献がどんなに大きかったのかが分かります。特に印象に残っているのがこのくだり。
「幕末から明治初年にかけて、・・・、神道の国教化をすすめる神仏分離の政策が・・やがて破壊的な様相を見せてきた。」(いわゆる廃仏毀釈です。)「破壊はまず比叡山の麓から始まり、火の手はまたたくまに全国に広がった。」「・・・神職者たちが境内の社殿に流れ込み、祭壇にまつってあった仏像や仏具をことごとく持ち出して焼き払った・・」
「町田久成は荒廃している全国の社寺の宝物を調査し、調査した古希旧物(歴史的文化財)を保護するために「古希旧物保存方」と名付けた文化財の保護法の制定と、保護した文化財を保管して展示するための「集古館の建設」を移送具用太政官に求めた」
「今でこそ、正倉院や法隆寺と言えば、日本を代表する歴史的な文化財の宝庫として、その文化的歴史的価値も十分認識され、管理も行き届いているが、「古器旧物保存法」が制定された明治の始め頃には、まだ僧侶や周囲の人の古文化財に対する関心も薄く、荒れるにまかされていた・・・ 」(本当に


もし町田久成が中央に提言していなかったら・・・・、もし文化財がきちんと調査され保護されていなかったら・・・ もっと多くの美しい文化財が失われていたかも知れません

面白い話があります




まだまだたくさん興味深い逸話がありますが、長くなるので

明治20年12月6日、島津久光が生涯を閉じます。本には「幼年期から50年ほど、主君久光を変わらず支えてきた重臣町田民部(久成)は、俗世における自分の役割もここで終わったとみた」とあります。 「久光の死を見届けた町田久成は奈良で内室の千代を出家させ、久光三回忌の仏式供養にあわせ、明治22年12月1日に滋賀県の園城寺(三井寺)で剃髪。」
薩英戦争、決死の英国留学を経て、時代の大きなうねりの中で、その時その時を精一杯真摯に生き抜いて、悲願の博物館の完成もみた・・侍としての忠義も果たした・・・波乱の人生を生ききった町田久成の心中はきっと穏やかな水の流れのようだったのではないかと思われます。
韻松亭は・・なんと、町田久成が名付け親でした!博物館館長時代に「鐘は上野か浅草か」と唱えられた鐘が松に響くさまを愛でて名付けたのだそうです。 美しい名前ですよね

私達がお詣りした法明院のお墓は歴代の住職たちの無縫塔がならぶ、小さな墓地でした。町田久成のお墓も他の住職たちと同じ小さな塔で、よく見ないと名前すら読み取れないほど。でもその小ささがかえって心に迫りました。ひっそりと目立たぬように。名も残さずに。 ああでも、私達に遺して下さったものの何と大きなことか・・・・・心から「ありがとうございました」と手を合わせました。 2つの偶然がなければ、三井寺に行っても鐘を撞いて帰って来ただけだったかも知れません





長くなりました


町田久茂どんのお名前は紅福母さんのブログ記事で知ったうつけものの
国立博物館ファンなので早速、興味を持って調べたところ、1円の新書を紅福母さんが買われた後には794円+送料から、というのしか残ってないれすけろけろ
あっ、串木野の記念館で運命の出会いをなさったのですね。私も行ってみたいところです。
串木野ならナビの指示に従って行けるかな~行ってみようかな~ (鹿児島)市内の友達と行く機会があったのですが、彼らと合流してって考えたら余分な時間がかかるから断っちゃったんですよね。
おひとりさまで行ってみようかな~
ええ~
串木野にある記念館は是非是非行って頂きたいです
一人の方がじっくり見られるかも知れません
今日も紅と福になでなで&投げチューありがと~