千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

博多の歴史

おいしゃん、今ライフワークで博多の歴史ば書き留まめよります。

生きとる間に完成するか?

最初は、博多の山笠ば題材にして小説書こうか?って書き始めたばってんが

物語作り上げるとには、文才の無かとで諦めました。

そこで、今まで十数年書いてきたこのBLOGばまとめて行こうて思うたとです。

日本の歴史と合わせてその頃、九州や博多はどげんやったとかいなって?

その中で注視するとが武将や商人の名前です。

九州の名だたる武将は島津・大友・少弐・原田等いろいろありますばってんが

特に武将は自分が治めた地の名前ば名乗ることが多いですね・・・・・

ここ筑前の国人では、原田氏、秋月氏、糸島では波多江氏が有名です。

波多江氏は以前は、この筑前地方だけに存在する「姓」でした・・

元弘の役で大活躍した「少弐景資」の少弐氏はもともと「武藤」です。

もともと平家に与しとったばってんが「一の谷の戦い」以後

源氏に寝返り、後に頼朝から「大宰少弐」の役職を貰います。

大宰府の一番上の役職は「権師」です、菅原道真公はこの「権師」ばってんが

左遷やったけん、名ばかりで給料も無く、数年でこの地で生涯を終えます。

大宰府の領民がそれを見て道真公に焼餅を梅の小枝にさして差し出したのが

今の太宰府名物「梅が枝餅」と言われています。

ちなみに今も不思議なとが「大宰府」と「太宰府」の使い分けです。

これは現在も根拠が明らかにされてませんが律令制度以後に「太宰府」が

用いられたようです。今でも太宰府市では「大宰府政庁跡」「太宰府天満宮」と

使い分けとるようです。

この大宰府の最高職「権師」の次官が「大宰大弐」です。

平安末期から武士が力をつけて来たので従来は朝廷が任ずる役職も

武士のものになります。

平清盛も「太宰大弐」を受け、日宋貿易の利を得ています。

この武藤氏も鎌倉幕府から「大宰少弐」の役職を受け九州で勢力を伸ばし

姓を「少弐氏」と名乗るようになるとです。

時代はずっと下って、大内・少弐との戦で勝ち残ったのが豊後の大友氏です。

この大友氏の武将たちもそれぞれ統治する地域の名を名乗っています。

吉弘 鎮理はその地の高橋姓を名乗ります。吉弘というより「高橋紹運」がしっくりします

同じく、「戸次鑑連」も立花城にちなみ立花姓を名乗ります。

これも「立花道雪」と言う名の方がなじみが深いと思います。

 

こげな有名な武将以外にも筑前の地元にはたくさん国人たちがおりました。

古賀の「菰野氏」やその北の「宗像氏」等々・・・・・

戦国時代はこの国人たちはお家の存続をかけて当時の勢力に対し

去就に翻弄されたことでしょうね。

一方、商人での名前で興味深いのは「茶屋四郎二郎」やらです。

四郎か?二郎か?はっきりしやい!ってなもんですがこれはね、

本家に対して四男坊が出世してそのまた次男坊が出世して自分の

ステータスを鼓舞する名前げな!

室町町時代にも商人は大きな力を有しておりました・・・・

博多商人の「奥堂右馬大夫」「同五郎次郎」「網庭太郎右衛門」

「澳浜新左衛門」らが遣明一号船の「門司和泉丸」に千貫文衆として乗り込んだて

いう記録が残っとります。

でましたね「五郎次郎」

それよりこの名前、今の博多の町ば思い浮かべません?

奥堂やら奥の堂やん、綱庭は綱場町やん!澳浜は今の博多部やん!

もうこうなったら地名が先か名前が先か?って話やん・・・・

たぶん地名が先って思うばってんがこの地名

誰がつけたっちゃろう?!

 

今回はここまで・・・・・

 

チャンチャン


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