バッテンこれ見たら博多方面は海までごくわずか
筑紫口方面にぐっと奥まで筑紫平野は広がります。
先日、岩屋城跡から筑紫野一帯ば見渡したけん
こんだ空から見てみた。(グーグル地図)
663年の白村江の戦いで、倭国(後の日本)は新羅・唐連合軍に敗れます。
そこで日本国土に攻めてこられるて思うて
倭国は防備ば固めるため様々な防衛施設ば作りました。
664年、対馬・壱岐・筑紫に防人とのろし台ば設置。
能古の島には今でもコスモス畑の中に
狼煙台跡が有りますね。
大宰府の西方に水城堤ば構築。
今も高速から見たら緑の一直線が残ります。
結局大陸からは攻めてこんかったけん
後の島津との戦いにこれが生きてきます。
海から攻めてくるとば予想して
水際の博多から内陸部、山に囲まれた処に
当事の外務機関である「大宰府」ばおきます。
大宰府の北側の山麓には「大野城」ば築きました。
今考えたら、こげなと作りよう間に攻めてこられたら
て思いますばってん。
戦国時代も、攻めて行ったらそこで城ば築いたりして
悠長やねえ・・て思いますばってん
昔は攻めてくるとも時間のかかってやおいきまっせん。
高速の輸送機関の無かけん
なんにしても時間の流がゆっくりやったとでしょう。
空から見たら筑紫の地理がよ~分かります。。
昔のひとも良~~う考えちゃあね
山の上から見渡して地理ば把握したとでしょうね。
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ちどりあし
SARA
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