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その学生たちが私の前にあらわれてから四十年あまりになる。
彼らは、奈良にハンセン病回復者の家をたてた。学生が自分よりすぐれていると感じる事は、しばしばだ。この学生たちは、四十年あまり私をひっぱった。
柴地則之は、古神道の教団から土地を借りて、家をたてるワーク・キャンプの工事をおこした。近所から反対が出て、工事の現場をかこまれた。すると、「皆さんの同意を得なければ、この宿舎は建設しません」と言って、途中まで積んであったブロックを、みんなの目の前でくずした。あきらめたわけではなく、夏休みごとに男女数人でつれだって、反対派の家々に、ハンセン病は新薬プロミンで治るようになったので、この人びとから伝染することはないという西占貢(京大医学部教授)の証明をみせて、説得をつづけた。もはや反対がなくなったと見て、一挙に家をたてた。このように数歩退いて、やがて盛りかえす姿勢が、この学生たちにはあった。(中略)
学生の何人もがなくなった。この若い人たちと会うことができたのが、私にとって大学のもつ意味である。
鶴見俊輔 『思い出袋』より 岩波新書
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八十歳を過ぎた鶴見俊輔。
素敵なおじいちゃまである。
第二次世界大戦を挟んだ頃、かなり特異な生育環境を強いられた鶴見俊輔が、落ちこぼれの劣等生になったり、不良少年になったりなどの曲折を経て、アメリカに留学する。
敗戦が明らかになってる時点で、日本に帰国する事を決意する。
国家への忠誠でなく、〝くに〟への帰還だ。
帰国後、語学の才を買われ、インドネシアで米軍の通信傍受の仕事に。
過労で肺を患う。
効かない麻酔下で手術を受ける。
敗戦後、鶴見俊輔が大事にした事は、普通の人としての振る舞いだ。
60年代後半、ベトナム戦争に反対するべ平連を小田実などと結成した。
当時、過激派からは馬鹿にされた組織だったが、過激派の誰一人として、具体的なアメリカ脱走兵をかくまう事なんて発想はなかった。
過激派は自意識過剰で、地味な世界には手を出そうともしなかった、、、。
普通人としての感覚が、人間として、当たり前の行為に駆り立てた。
学ぶ所だらけの一冊だった。
カイロジジイのHPは
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