この本では、非常時の言葉として、震災の後も耐えうる言葉として、加藤典洋、ジャン・ジュネ、石牟礼道子、川上弘美、堀江敏幸、古市憲寿などの文章が紹介されている。
今日は、石牟礼道子『苦界浄土』について。
徳さんは国家公務員の息子で、東京と地方都市を交互に移動するという子供時代だった。
小学校は6回転校し、担任の先生は12人という記録を持っている。
従って、故郷というものを持っていない。故郷に寄せる心情を持ち合わせていない。
いわば根無し草で、人が小中学校の同窓会の話を楽しそうに、懐かしそうにしているのを羨ましく聞いている。
なのに、どうして『苦界浄土』に登場する、じっさま、ばっさまの語り言葉に魂を揺さぶられ、あわせて懐かしさをも感じてしまうのだろうか?
人間には本人にも分からない出生以前の遠い記憶というものがあるのだろうか?
何世代もの前の自分を取り巻く人々や環境はこのようなものであったのか、遺伝子の記憶にそんなものが乗っかっているのか、、、?
***
確かに、これは「地獄」を描いた「文章」であることに、間違いはない。なぜなら、目の前には、貧窮に苦しむ家族が、治癒することのない難病に生まれた時からかかっている少年が、いるからである。
少年は、動かぬ体、開くことのできない口をもっていて、他人の世話を受けなければ生きてはいけない。いま世話をしている老人たちは、もうすぐこの世を去ろうとしている。この家には、明るい希望は、どこにもない。
それにもかかわらず、どうして、この「文章」を、ぼくたちは「美しい」と感じるのだろう。
***
***
この「文章」は、ぼくたちが知っている、どんな種類の「書き言葉」にも似ていない。確かに、これは、水俣の人々が、日々話していることばにちがいない。けれど、それを正確に、文字に変えただけでは、こんな「文章」にはならない。
「話し言葉」は、多くの場合、不鮮明で、繰り返しが多く、聞くに(見るに)耐えないのである。
「あねさん」には、ことばにひそむ音楽を聞く能力があったのだ。そのことばにひそむ、たくさんの音楽に聞き入り、最も美しい部分を、書き抜いたのである。
ぼくは、この「文章」を読みながら、いつしか、小さく口ずさんでいる自分に気づいた。実際には、口ずさむことなどなくても、ぼくの頭の中では、ふだんと異なったことが起こっていた。
いつも、その意味だけしか興味がなかった「文字」が、この「文章」の中では、どこかに、確かに存在している誰かの、口から直接出てきた、かけがいのない「音」だということに、気づかされたのだ。
***
***
「あねさん」が耳をかたむけ、収集した「爺やん」の「ことば」を、ぼくたちに届ける。
その「ことば」は、「杢」が、ふだん聞いている「言葉」でもあるだろう。それと同じ「言葉」を、ぼくたちも聞くのである。
ぼくたちが、このような悲惨な場所を「地獄」であると感じないのは、この「ことば」を耳にしているからだ。
「爺やん」が、ふだん「杢」に向かって話している「ことば」が「地獄」にふさわしくないからだ。
***
***
『苦界浄土』を読みながら、読者は、そこが、想像しうる限りもっとも悲惨な世界であるのに、「地獄」であるより、「天国」ではないかと一瞬感じる。いや「天国」ではなく、この世界の言葉づかいによるなら、苦しみのない「浄土」なのだろうか。そして、人は、このような苦悩を経た後ではないと、「浄土」にはたどり着けないのではないか、と思うのである。
***
***
水俣病の患者は、国や社会によって、この社会によって、殺されたのである。あるいは、徹底的に破壊されたのである。
だが、人間が、徹底的にに破壊されるとは、ただ殺されることではなく、忘れ去られること、その生が意味などなかったとされることではなかろうか。
そのことを知って、「あねさん」は、これらの「文章」を書いた。そして、生涯、「文章」などとは無縁だった「坂上ゆき」は「あねさん」の「文章」の中で、蘇ったのである。その生涯が、どれほど豊かであったかを、証明するために、その「文章」は書かれたのだ。
それは、死にゆく「坂上ゆき」への「祈祷の朗唱」でもあっただろう。
***
カイロジジイのHPは
http://chirozizii.com/
そして、なんでもブログのランキングというものがあるそうで、以下をクリックするとブログの作者は喜ぶらしい。
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今日は、石牟礼道子『苦界浄土』について。
徳さんは国家公務員の息子で、東京と地方都市を交互に移動するという子供時代だった。
小学校は6回転校し、担任の先生は12人という記録を持っている。
従って、故郷というものを持っていない。故郷に寄せる心情を持ち合わせていない。
いわば根無し草で、人が小中学校の同窓会の話を楽しそうに、懐かしそうにしているのを羨ましく聞いている。
なのに、どうして『苦界浄土』に登場する、じっさま、ばっさまの語り言葉に魂を揺さぶられ、あわせて懐かしさをも感じてしまうのだろうか?
人間には本人にも分からない出生以前の遠い記憶というものがあるのだろうか?
何世代もの前の自分を取り巻く人々や環境はこのようなものであったのか、遺伝子の記憶にそんなものが乗っかっているのか、、、?
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確かに、これは「地獄」を描いた「文章」であることに、間違いはない。なぜなら、目の前には、貧窮に苦しむ家族が、治癒することのない難病に生まれた時からかかっている少年が、いるからである。
少年は、動かぬ体、開くことのできない口をもっていて、他人の世話を受けなければ生きてはいけない。いま世話をしている老人たちは、もうすぐこの世を去ろうとしている。この家には、明るい希望は、どこにもない。
それにもかかわらず、どうして、この「文章」を、ぼくたちは「美しい」と感じるのだろう。
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この「文章」は、ぼくたちが知っている、どんな種類の「書き言葉」にも似ていない。確かに、これは、水俣の人々が、日々話していることばにちがいない。けれど、それを正確に、文字に変えただけでは、こんな「文章」にはならない。
「話し言葉」は、多くの場合、不鮮明で、繰り返しが多く、聞くに(見るに)耐えないのである。
「あねさん」には、ことばにひそむ音楽を聞く能力があったのだ。そのことばにひそむ、たくさんの音楽に聞き入り、最も美しい部分を、書き抜いたのである。
ぼくは、この「文章」を読みながら、いつしか、小さく口ずさんでいる自分に気づいた。実際には、口ずさむことなどなくても、ぼくの頭の中では、ふだんと異なったことが起こっていた。
いつも、その意味だけしか興味がなかった「文字」が、この「文章」の中では、どこかに、確かに存在している誰かの、口から直接出てきた、かけがいのない「音」だということに、気づかされたのだ。
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「あねさん」が耳をかたむけ、収集した「爺やん」の「ことば」を、ぼくたちに届ける。
その「ことば」は、「杢」が、ふだん聞いている「言葉」でもあるだろう。それと同じ「言葉」を、ぼくたちも聞くのである。
ぼくたちが、このような悲惨な場所を「地獄」であると感じないのは、この「ことば」を耳にしているからだ。
「爺やん」が、ふだん「杢」に向かって話している「ことば」が「地獄」にふさわしくないからだ。
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『苦界浄土』を読みながら、読者は、そこが、想像しうる限りもっとも悲惨な世界であるのに、「地獄」であるより、「天国」ではないかと一瞬感じる。いや「天国」ではなく、この世界の言葉づかいによるなら、苦しみのない「浄土」なのだろうか。そして、人は、このような苦悩を経た後ではないと、「浄土」にはたどり着けないのではないか、と思うのである。
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水俣病の患者は、国や社会によって、この社会によって、殺されたのである。あるいは、徹底的に破壊されたのである。
だが、人間が、徹底的にに破壊されるとは、ただ殺されることではなく、忘れ去られること、その生が意味などなかったとされることではなかろうか。
そのことを知って、「あねさん」は、これらの「文章」を書いた。そして、生涯、「文章」などとは無縁だった「坂上ゆき」は「あねさん」の「文章」の中で、蘇ったのである。その生涯が、どれほど豊かであったかを、証明するために、その「文章」は書かれたのだ。
それは、死にゆく「坂上ゆき」への「祈祷の朗唱」でもあっただろう。
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