カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

見田宗介 『現代社会の理論』

2013-09-20 18:49:48 | 本日の抜粋

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資本主義という一つのシステムが、必ずしも軍事需要に依存するということなしに、決定的な恐慌を回避し繁栄を持続する形式を見出したということ、この新しい形式として、「消費社会化」という現象をまず把握しておくことができるということである。

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 二〇世紀の末の現在、レイチェル・カーソンのこの新しい戦慄を、いくらか「時代おくれ」のものであるように感じる人は多くなっている。それは書かれていることが、解決され、すでに存在しなくなっているからではない。反対に、多くの国々で、ふつうのことになり、だれもそのことに注目しなくなったからである。気づいても、新しい戦慄の声を挙げるということを、しなくなっているからである。人間たちもまた沈黙してしまったからである。あるいは、われわれの中の感受性も、声を挙げるということをしなくなったからである。

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「水俣病」事件史の決定的な分岐点である、一九五九年一一月という時点は、巨視的な社会構造の変動という視点からみても、決定的な屈折点だった。前述のとおり、もしこの時点で、厚生省側の調査結果が封じられずに活かされていれば、悲惨な被害の大半部分は、未然に防ぐことができた。(中略)
(一九六八年)電気化学から石油化学への転換の中で、この旧式の製造工程が、最終的に「用済み」となったのである。つまり、被害を予防することにとっては全く射目がなくなった時点になって、初めて原因が認定されている。生産の効率優先という政策のテレオノミー(目的指向)の露骨な貫徹である。

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 現代の情報消費社会のシステムの原理上の矛盾のこのような、「福祉」という補完システムによる手当ては、国家により時代によって、十分に近い水準でなされることもあり、ほとんどなされていないこともある。この量的な水準の上下はもちろん、じっさいに多くの人々にとって切実な問題である。けれども、この量的な水準の上下とは関わりなしに、この社会の原理的なシステムによっていったんは外部化され「排出」された矛盾の、第二次的な「手当て」であり「救済」であるという構造は、この「福祉」という領域を、基本的に傷つけられやすいものとしている。機器の局面にはいつも、「削減」や「節約」や「肩代わり」や「自己負担」や「合理化」の対象として議題の俎上にのせられれものとしている。

 見田宗介 『現代社会の理論』より 岩波新書

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徳さん、学ぶばかりで、コメントはほとんどない。

この本は現代の、ということは現代資本主義の光と闇を検証した上で、未来を構想している。
しかし、道は遠い。

戦争なしに資本主義を成り立たせることに世界は一応成功した。
しかし、世界は、大国の代理戦争めいた地域紛争で覆われている。
 
そして、先進国の資本主義(そう、資本主義ってのは先進国の仕組みと言い換えていい)は収奪する事のできる対象国、地域があって初めて成立する。
収奪の対象は地球規模の資源にまで及び、今なお争奪合戦を繰り返している。

自分たちが立っている氷山は日に日に薄く脆くなっているのに、足元の見えない部分での変化に気づいていても見ぬ振りしてサルカニ合戦をしている、、、。


本日のおまけ

2011/6/17の朝日新聞の見田宗介へのインタビュー記事を見つけたので参考まで。
徳さんの抜粋は恣意的なので、この本が何を言いたいのかは以下のインタビュー記事がコンパクトにまとめてくれてる。


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 資源の大量採取や他民族からの収奪に歯止めをかけなければ人類に明るい未来はない。だが自由な社会を手放すことなくそれは可能か。この難題に力強く「イエス」と答えたのが、見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)だった。冷戦後に提示され、「美しい」とさえ評された論考の原点は、冷戦下の“東側”にあった。

    ◇

 74年に僕は欧州を放浪しました。

 社会主義国・チェコスロバキア(当時)のプラハで学生たちと夜を徹して話し合う機会がありました。印象的だったのは、彼らが“西側”の自由な世界に強くあこがれていたことでした。

 当時、日本で“現代社会の理論”と言えば、「今の社会は資本主義だから悪い」という前提に立つものが主流でした。けれどプラハの若者たちはその資本主義にあこがれていた。「資本主義だから」「社会主義だから」という前提を取っ払ってみよう、と思いました。「どういう名であれ、人々が現実に幸福な社会ならばいい」とまずは考えてみよう、と思ったのです。

 人間が歴史の中で作ってきた社会を考えてみると、当時の資本主義社会は他の社会よりましと思えた。では、なぜうまく行くのか。理論的にきちんと考えた方がいいと思ったのが『現代社会の理論』のモチーフです。ずいぶん時間がかかってしまいましたが。

 結論は本に書いた通り、情報化と消費化の力だ、というものでした。

 昔の資本主義は恐慌が定期的に来て、それを避けるには戦争で需要を生み出すしかない、ひどい社会だった。けれど20世紀後半になると、大恐慌が起きなくなる。自由な欲望に基づく消費と、デザインや広告など情報の力によって、資本主義のシステムが需要と市場を自ら創出できるように変わったからです。もちろん、資源の有限性、南北問題のような収奪構造など、課題もある。しかし消費化は本来、生産至上主義からの解放であるし、情報化は本来、脱・物質化であるから、両者を組み合わせれば解決は不可能ではない。そう本に書いたのです。この本はカラッとした科学的な議論の本にし、「生きることの意味」など現代人の精神状況の問題は積み残しました。

 福島第一原発の事故で僕が驚いたのは、少し後の世論調査です。あれだけの事態でも、半数以上の人が原発を続けようと答えていた。原発に依存的な構造ができてしまっているのです。成長を続けなければ社会が成り立たないかのごとき成長依存的な社会構造、そして精神構造が根底にある。

一般に生物は、環境に適応したことで個体数が増え、続いて爆発的な増加を遂げたあと、環境の限界に直面して横ばいの安定期に入ります。そのように環境と共存する術(すべ)を持ちえた集団が、生き残る。

 地球という有限な環境下での人間も同じことです。実際統計を見ても、世界人口は増え続けてはいるものの、70年ごろを境に増加率は急激に減少している。人間社会は近代という「爆発的な増加期」を経験した上で安定の局面に入ったと僕は見ます。そういう歴史の「変曲点」を通過したのに、人々はまだそのことに気づいておらず、成長に依存するシステムと心の習慣から脱していない。これが現代の矛盾です。

 安定期に転じた社会で人々がアートや友情のような、資源浪費的でない幸福を楽しんでいる。それは本当にすてきな社会です。このことは『現代社会の理論』の次の展開として、現代人の孤独の問題などとともに、いま本にまとめています。(聞き手・塩倉裕)


検証した上でのカイロジジイのHPは
http://www6.ocn.ne.jp/~tokuch/


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