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カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

再鑑賞、陸川(ルー・チュアン)監督 『南京、南京』

2015-03-07 19:51:41 | 本日の映画
土曜だというのに、徳さんの施療院はえらくお暇。
もうすぐ、潰れるんじゃないのか?
ま、それもいいか。
トホホ、ではあるが。

で、前回断続的に見てた『南京、南京』を、2時間15分をぶっ通しで鑑賞することにした。

なんでこの映画がこんなにも気にかかるのか?

それは陸川監督の視点にある。
撮影当時は30代後半の戦争を知らない世代の中国人が描いた南京大虐殺。
でもそれは、自国の憎しみを駆り立てるものではなかった。
ただひたすらに侵略国日本を糾弾する映画ではなく、戦争そのものを糾弾する映画になっている。
中国人主人公が何人かいて、日本人将校の一人が主人公になっている。
目は、複眼的である。

ラストでは、日本人将校が中国人捕虜二人を逃がし、自決する。

この一日本人を美化するような描写が、中国では非難の嵐が吹き荒れたという。
でありながら、この映画の中国での興業成績は爆発的なものであった。

目につきやすい非難と静かなる支持、といったところか。

日本ではこの映画の批評もしようがない。
一回の試写会と、小さなホールで一日だけの上映がなされただけという。
各映画館は、ビビッて上映せず。(だから、youtubeで全編見ることが出来るのだが、、、)
右翼にか、安倍坊的体質を恐れてか?

ただ今現在の日本にいると、中国としての情報は、中国政府の公式発表とそれに反対するの日本政府の反論ばかり。
マスコミはそれに拍車をかけるように、陰に籠ったヘイトスピーチ合戦で両政府を応援しちまっている。

南京の南京大虐殺記念館にある膨大な日本人兵士の日記やノートを元にしてこの映画の客観性を確保したという陸川監督。
日本人に刷り込まれた中国人に対する誤解をほどく一人である。
この包容力は今の日本人にはない、、、、。
(周恩来に学べ)



本日のおまけ

たった一度の日本での上映会。
上映後、陸川監督のトークショーがあった。下記にレポートを。


陸川(ルー・チュアン)監督トークショー


熊谷伸一郎氏
司会:熊谷伸一郎氏(「世界」編集部、史実を守る映画祭実行委員)

熊谷:次の作品の撮影の山場を迎えて大変お忙しいところ、本日の上映会の為に2日間休んでおいでくださいました。監督は今、40歳です。大変お若い監督が重いテーマを選ばれたのはなぜですか?

監督:すでに若くないと思っています。30代ならいいなと。私は大学の4年間南京にいて、南京大虐殺記念館に数度行き、このことをテーマにいつか映画を作れればいいなと思っていました。

熊谷:監督のご家族、お祖父さまなど日中戦争にまつわる経験をされているのでしょうか?

監督:私の父方の祖母は上海の人で、上海で戦時の訓練中にお祖父さんと出会って結婚しました。他の家族は直接日中戦争には関係していません。私自身、軍隊に行ったことがあります。

熊谷:自ら希望して軍隊にいらしたのですか?

監督:入った大学が軍隊の大学でしたが(人民解放軍国際情勢部で英語を学ぶ)、自ら行きたかったわけではありません。軍の大学はすごく厳しいのです。でも、今、考えれば、そこに行った経験があったからこそ、この作品を作ることができたと思います。

熊谷:映画を作る前の日本軍のイメージは?

監督:私が受けた教育の知識の中では、日本軍は人間ではない、残虐というイメージでした。女性が裸で運ばれる写真なども見せられました。

熊谷:映画を作ることによって日本軍に対する見方は変わりましたか?


陸川監督
監督:映画を作るときに、友人が個人で運営している抗日博物館に通い、日本兵が撮った4万点の写真や日記や手紙を全部読んで、日本兵も人間だと思いました。戦争がなければ普通の家庭の人たちなのに、戦争で人が変わってしまうと感じました。
いろんな資料を読んで、中国人と日本人の問題ではなく、人間と戦争の問題として捉えようと思いました。あれから70年経って映画を作って、日中だけでなく、アメリカでもフランスでも、世界の各地で人間と戦争を考えて貰えればと思います。

熊谷:日本兵をリアルに描いている中で、犯罪行為に悩む姿があって、そこに監督の思いが篭っていると思いました。中国で観た人たちの反応はいかがでしたか?

監督:この映画は自分としては、日本兵の手紙と日記に沿って描いた事実なのですが、中国で上映した時の反応はすごかったです。当時の論議は激しくて、反対意見もすごく多かったです。中国の被害者は多いし、遺族はまだ生きている。恨みが激しくて受け入れられないと非難されました。

熊谷:監督はそれに対してどうのように言われたのですか?

監督:当時、皆の前に出て行って論議したかったけれど、反抗が激しくて出て行けませんでした。脅迫メールなどもたくさんきました。2年後の今、皆、静かになったし、評価も良くなりました。この事件を正しく伝えることになったかもしれません。上映当時、真っ二つに意見が分かれて、支持する人も多かったのです。

熊谷:中国の若い人の対日感情をどのように見ていますか?

監督:若い人の日本に対する思いは矛盾しています。アニメや日本製の商品は好きな一方、南京のことなどあるから恨みも強い。

熊谷:国民党を描くのも中国では挑戦的なことだと思うのですが、意識して作られたのですか?(日本軍に抵抗する国民党軍の兵士が出てくる)

監督:監督としては、作品を作るからには自分のしたいことをする。回避するつもりはありません。本を書くのと同じで、いいものを作りたい気持ちが一番です。

熊谷:映画が作られて、中国で2009年に封切りされた時の状況を教えてください。

監督:2009年4月に封切られて、10日間で1億元の売上。20日間で1.7億元(約20億円)に達しましたが、論争がひどくなってストップがかけられました。(最終興収は25億円という)

熊谷:日本では2年経って、まだ商業的に興行されていません。監督としては、日本でも公開したいのですよね?


陸川監督
監督:映画が誕生したら旅に出したい。終点は日本。今日はそのスタートとして、これからもっとたくさんの人に観ていただきたいと思っています。(会場から大きな拍手)

熊谷:今回は自主上映。できるだけ多くの日本人に観てもらって、いろんな捉え方をしてほしい。南京事件を描いているので、日本に持ってくるべき映画。もっと多くの人に観られるようになってほしいと思っています。 1937年当時の日本人像を映画の中で描かれていますが、当時と今でどのような変化を感じますか?

監督:私は1937年にはいなかったので(笑)、現在の日本人についての印象を話したいと思います。今、日本人の友達はたくさんいますが、心の中で3つの段階を感じています。まず、一つ。普段付き合うと優しいし礼儀正しいし、規律も守る。これは表に出てくる面です。二つ目。奥に入ると心の中に誇りを持っていると思います。三つ目。もっと奥に入ると、孤独や絶望を感じます。表面的な強さではなく弱さも感じられます。 それに、一緒にお酒を呑むとすぐ酔ってしまいます(笑)。

熊谷:私も酔いましたね。監督は強いんです。
それでは、監督が会場から是非質問を受けたいとのことですので、監督からご指名を!

◆会場からのQ&A

●(男性)日本人の中には、県知事や国会議員、そして元総理大臣など、政治家の中にも南京虐殺は捏造だという人がいます。これらの考えを聞いてどのように思いますか?
1、無視する
2、映画を観てと一言う
3、日本のことだと、あえて何も言わない

監督:事実でないという人には、是非映画を観てほしいと思います。映画に使っているシーンは、当時の写真や、日本兵の日記、日本兵に聞いて作ったもので、全部証拠があります。それらを元に作ったものです。
ドイツとユダヤ人の関係では、戦時中のユダヤ人の虐殺を認め謝罪しています。罪を犯したら認めて謝る。それが上に立つ人の姿だと思います。
(毅然とした態度で語ると、会場から拍手が起こった)

● (女性)勝利を祝う式典で、日本兵が太鼓を敲いて踊っていて、夏祭りのような感じで描かれていましたが、このシーンの意図を教えてください。

監督:太鼓を敲いている人たちは東京から呼びました。日本の文化を映画で表現したかった。国家として、民族の文化を使って戦争へ向う人を団結させていることを表現したかったのです。ナチスもドイツ人をデモさせる時に歌などで団結させました。儀式は人間の精神的コントロールの役目を果たします。中国の歴史の中でもありました。そういう状況の中で人間は思考力があるかどうか、それを観客に考えてもらいたいと思いました。

● (男性)日本兵角川が上官の蛮行を非難するような態度を見せたが、東京裁判で、総司令官だった松井石根が、師団長らを集めて南京での兵士たちによる暴行行為を管理できなかったことに対し「泣いて怒った」との証言があったことを知った上で、角川というキャラクターを作ったのか?
(この方の真意は伝わらなかったが、監督は下記のように話した)


陸川監督
監督:東京裁判の資料も全部読みましたが、この作品では将校クラスの人物は描きませんでした。それには理由があります。権力を持つものは自分のやりたいことや考えを表現する場がありますが、現場で人を殺した兵士や殺された人たちは、自分で口に出して言うチャンスがない。事実として、戦争の被害を受けているのは沈黙している大勢の人たちです。(会場から大きな拍手)

● (若い人からの質問を受けたいとの監督の要望で、若い女性より) 面白かったです。俳優が全員ステキでした。日本の俳優もオーディションで選んだのですか? 印象は?

監督:すべて東京で、2日半かけて90数人に会いました。当時、有名な俳優を使いたいとも思いましたが、プロダクションの反対にあい実現しませんでした。でも、出演した俳優たちはほんとに素晴らしいです。
 中国で今とても有名になった俳優もいます。日本人娼婦役を演じた宮本裕子さんです。日本でもスターになってほしいです。
(戦争の矛盾点を一身に背負った日本兵伊田役を演じた木幡竜さんは、その後、ドニー・イェン主演の『レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳』(9月17日日本公開)に準主役級に抜てきされている)


*トークショー後、成田空港に直行し、帰国の途につかれるため、時間通りにトークショーは終了した。

(記録:景山 まとめ・写真:宮崎)



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陸川監督 『南京、南京』

2015-02-24 17:39:47 | 本日の映画


今夜もこれからお出かけ。
ただし、お相手は酒を飲まないので、徳さんもそんなには飲まない予定。

ということで、今日は、映画の紹介のみ。

youtubeで全編が見れる。
2時間15分の長編なので、ちゃんと時間を取って見て下され。
gooで共有はできないみたいなので、「南京、南京」で検索して下され。

南京虐殺事件を中国の若手監督が、加害者側の日本人兵隊を主人公にして描いたもの。
必見!



徳さんの改装HPの住所も末席に、、、。
http://chirozizii.com/


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無垢な虐殺たち  映画『アウトオブキリング』

2014-08-16 19:47:09 | 本日の映画
徳さん、なかなか、映画を見る機会が見つけられない。
いくら仕事が暇でも、ひたすら待機を余儀なくされる身としては、、、。
もちろん、最終上映時間には間に合うが、それをすれば、最終電車は必定。
明日朝目覚めてわが身が動くかどうか怪しい老人にはタブーの時間設定となる、、、、。

昨日は盆休みの中の一日。
これなら、大手を振って映画鑑賞できる。

という事で、渋谷にあるシアター・イメージ・フォーラムに行った。
マイナーな映画も引き受けますということらしく、『行き行きて神軍』もその日上映されていた。

さて、この映画、概要や背景は「本日のおまけ」をご覧あれ。

大事なのは、この映画は自分にとって何なのか?という問いかけである。

今までのドキュメント映画とはおもむきを異にするこの映画。
被害者の視線からではなく、加害者の視線で創られている。
しかも、実質、この映画の作成に加害者が深く関与している。
監督が上手く加害者達を乗せたというより、成り行きの偶然の重なりに寄って加害者達が積極的に乗ってきたという、特異な加害者達の心理が作用している。

俺たちは英雄だ。
俺たちを見よ!って。

そこにイデオロギー(妄想)が入り込めば、人は平気で殺人のシキイを超えられる、、、。
それが、一般市民であろうと、女子供であろうとも、、、。
(恐ろしいのは、安倍を殺せ!という耳鳴りがして、そうか、そんな手もあるわいな、と思う自分の存在である、アハハ、、、)
事実、今現在の世界中で似たような事が頻発している。

徳さんをはじめ、ひ弱な現在の日本人には、にわかに信じられない感覚だ。
しかし、つい60数年前、日本中の人々が共有していた感覚だ、、、。

この映画が露出した人間の醜悪さ。
それは己自身のどこかにくすぶってる闇の一部でもある。
それは、この映画の主人公が、どこかナイスガイとして認識されることからでもうかがえる。



本日のおまけ

「骰子の眼」というブログから

60年代にインドネシアで行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちにカメラを向け、虐殺の模様を映画化するために彼らに殺人を演じさせたドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』が4月12日(土)よりロードショー。公開にあたり、3月25日にシネマート六本木で行われた特別試写会で、元インドネシア・スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人、そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が登壇した。

デヴィ夫人は1962年、当時のインドネシア大統領スカルノと結婚し、第三夫人となった。1965年9月30日に、後に「9.30 事件」と呼ばれる軍事クーデターが勃発。夫スカルノは失脚し大統領職を追われ、デヴィ夫人自身も命からがら亡命した。今作は、その「9.30 事件」によって起こった100万とも200万とも言われる虐殺を描いている。

試写会当日、映画評論家の町山智浩さんの司会により、デヴィ夫人は自らが体験したクーデターの現場の模様や、アメリカや日本が当時の政権を支持することでクーデターや虐殺に関与していたことを生々しく語った。

今回は、映画が映しだしている事件を間近に知るデヴィ夫人によるトークの全文、そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が制作の経緯を語ったインタビューを掲載する。



デヴィ夫人によるトーク
「当時日本の佐藤首相はポケットマネー600万円を、
殺戮を繰り返していた人に資金として与えていた」

デヴィ夫人:スカルノ大統領は別に共産主義者ではありませんし、共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。あの当時(この映画の背景となっている1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデター「9・30事件」)、アメリカとソ連のパワーが世界を牛耳っていた時に、スカルノ大統領は中立国として、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの勢力を結集して第三勢力というものをつくろうと頑張っていた為に、ホワイトハウスから大変睨まれましておりました。太平洋にある国々でアメリカの基地を拒絶したのはスカルノ大統領だけです。それらのことがありまして、ペンタゴン(アメリカの国防総省)からスカルノ大統領は憎まれておりました。アメリカを敵に回すということはどういうことかというのは、皆さま私が説明しなくてもお分かりになっていただけるかと思います。

1965年の10月1日未明にスカルノ大統領の護衛隊の一部が6人の将軍を殺害するという事件が起きてしまいました。(この事件は)その6人の将軍たちが、10月10日の建国の日にクーデターを起こそうとしているとして、その前にその将軍たちをとらえてしまおう、ということだったんですが、実際には、とらえただけではなく殺戮があったんです。建国の日には、大統領官邸の前にインドネシアの全ての武器、全兵隊が集まり、その前で立ってスピーチをする予定だったものですから、そこで暗殺をするというのは一番簡単なことだったわけなんです。エジプトのアンワル大統領(アンワル・アッ=サーダート)も軍隊の行進の最中に暗殺されたということは皆さまもご存知かと思いますが、そういったことが行われようとしていたということなんです。

7番目に偉かった将軍がスハルト将軍で、10月1日の朝早くに、インドネシアの放送局を占領しまして、「昨夜、共産党によるクーデターがあった」「将軍たちが殺害された」と言って、すぐに共産党のせいにしました。そして赤狩りと称するものを正当化して、国民の怒りを毎日毎日あおって、1965年の暮れから1966年、1967年にかけまして、100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの人たち、共産党とされた人、ないしはまったく無関係のスカルノ信仰者であるというだけで罪を着せられて殺されたといった事件が起こりました。この度、この映画で初めてそれが事実であるということが証明されて、私は大変嬉しく思っておりまして、ジョシュア・オッペンハイマー監督には、その偉業を本当に心から心から感謝してやみません。何十年間と汚名をきたまんまでいたスカルノ大統領ですが、この映画で真実が世界的に広まる、ということにおいて、私は本当に嬉しくて、心より感謝をしております。

町山:クーデターが起こった時、どちらにおられましたか?

デヴィ夫人:私はジャカルタにおりました。大統領もジャカルタにおりました。(スハルト将軍は)大変頭の良い方で、それがクーデターだとなったというのは結果的なもののわけで、要するに、その当時のインドネシアの情勢を完全に彼が握ってしまったということなんですね。そして当時の空軍、海軍の指導者たちにも国民から疑いの眼を向けられるようにしたりしました(*スハルトは陸軍大臣兼陸軍参謀総長)。その当時のアメリカ、日本はスハルト将軍を支援しています。佐藤(栄作)首相の時代だったのですが、佐藤首相はご自分のポケットマネーを600万円、その当時の斉藤鎮男大使に渡して、その暴徒たち、殺戮を繰り返していた人に対して資金を与えているんですね。そういう方が後にノーベル平和賞を受けた、ということに、私は大変な憤慨をしております。

町山:事件が起こった時は、大統領官邸にいらっしゃったんですか?

デヴィ夫人:私はヤソオ宮殿におりました。

町山:戦車が出たり、大変な事態になっていたわけですよね?

デヴィ夫人:そうですね。もうホントに夜は……。あの時は誰が味方で誰が敵か、もう分からない状態で……。戦車の音がゴーッ、と響き渡っていて。私はその音で飛び起きていました。(何か起こった時には)窓を飛び降りて、庭を突っ切って、ヤソオ宮殿の裏にある川の中に身を沈めて、竹をもって日本の忍者みたいにあの冷たい川の中で何分くらいいられるのか、走って何分くらいでそこに辿り着けるか、そんなことを考えて、毎晩ズボンを履いて寝ていました。

町山:宮殿の中で身を潜めていたんですか?

デヴィ夫人:そうですね。私のところには護衛官はいましたけど、護衛官は8人ずつの交代制でおりまして、事件当時は30人~40人に増えましたけれども、その人たちがいつ裏切るかも分からないですし、その人たちが味方なのかスパイなのかも分からない状態でした。

町山:日本大使館に逃げ込んだり、ということは考えられませんでしたか?

デヴィ夫人:私自身が大使館の中に逃げ込むということはしませんでした。日本政府にご迷惑がかかると思いましたので。ただ、その当時私が持っておりました高価なものをお預けしました。そうしましたら、斉藤鎮男大使が私の預けたものを庭に放り出したという噂を聞きまして、その当時の大使のところにいらした料理人夫妻が、わたしが預けたものを全部私のところに届けにきてくれました。その後彼は、日本の外務省にとんでもない報告をしまして、その報告によって日本は、スハルト将軍応援のほうにまわったんです。この斉藤鎮男大使というのは、その当時のアメリカ大使と非常に親しくしておりました。このアメリカの大使は赴任する先々で内乱がおきたり、クーデターがおきたりする方で有名な大使だったんです。

「虐殺をしていた人間がそれを再現する、
その恐ろしさに身震いをした」

町山:その当時、スカルノ大統領は監禁された状態だったのですか?

デヴィ夫人:その時はまだ監禁されておりませんでしたが、その後、ヤソオ宮殿のほうに幽閉されて、家族とも会えない状態になりました。私は武装された人間たちに警護されていましたが、その警護はいつ敵になるか分からない、という不安がございました。

町山:虐殺が行われていたということを当時は知っていましたか?

デヴィ夫人:はい。PKI(Partai Komunis Indonesia/インドネシア共産党)というんですが、その当時のインドネシアの共産党の幹部たちは、言い訳もできない、そういうチャンスも何も与えられない、「自分たちは無実だ」とは言っていましたけれども、逃げるしか無いということで逃げまわりましたけれども、結局全員捕まって、虐殺されています。その内の一人で、ニョトという幹部がいたんですが、この方が全身を針金で縛られてその針金を引っ張られて亡くなったというニュースを見ていて、まさかそんなことがと思っていたんですが、この映画をみると、そういったことが(確かに)あったんだと……。

町山:そのシーンでてきますね。この映画を観たご感想はいかがでした?

デヴィ夫人:1966年を中心にインドネシアで大虐殺があって、(この映画では)メダンの周りの虐殺しか出てこないんですが、もうジャワ中、それからバリ、スワベシ、スマトラ、もう村から村へと、総なめに殺害されていました。その時にあれだけの人間が殺害されていたのに国連が全然動かなかったんです。国連は完全にアメリカの影響下にあったということがこれでよく分かると思うんですけれども、いずれにしましても、スカルノ大統領は第三勢力というものを作り上げようとした、アメリカに基地を与えなかった、そしてアジア・アフリカのリーダーとなっていたということで、アメリカにとってスカルノ大統領は目の上のたんこぶだったんですね。なので、彼はアメリカによって5回くらい暗殺を仕掛けられたんですが、幸いに神のご加護か、助かって来たわけですけれども。とにかくこれは(その虐殺を証明する)大変貴重な映画で、(映画を通して)初めて真実が世界に伝わるのではないかなと思います。

普通は殺人を犯した人間が、虐殺をしていた人間が、それを再現するという神経、これは非常に異常なことだと思うんですね。監督がそれを虐殺者にそれを演じさせるという、どのように話を持っていったのかは映画をご覧になれば分かりますけれども、最初この映画いったい何なのかしら?と分からなかったんですけれども、段々引きこまれてその恐ろしさに身震いをしました。

(3月25日、シネマート六本木にて)



オッペンハイマー監督インタビュー
「スタッフを匿名にしているのは、
いまだ、彼らの身に危険が及ぶかもしれないからです」

──どのような動機でこの作品を作ったのですか。
「この作品を撮る前、そもそもインドネシアに行ったのはヤシ油を採るヤシ農園の労働者たちが組合を作ろうとする様子を記録するためでした。スハルト政権後、ベルギーの会社に雇われた女性たちが、肝臓を痛めるような除草剤を使わされるなど過酷な労働環境にありましたが、組合を作ろうとするとパンチャシラ青年団(極右軍事集団)から脅迫され攻撃される、といったことがあり、そんな彼らの葛藤を記録するのが目的でした。アメリカの関与のレベルというのははっきりとはしていませんが、アメリカは少なくともインドネシア軍に死のリスト、多くはジャーナリストでしたが、新体制に反対する人々の名前を渡していたということは明らかですし、武器や資金を援助していたことも分かっています。その事実が、私がこの映画を作るモチベーションの一つになったことは間違いありません」

「この作品はもともと、虐殺の生存者たちと一緒に作り始めました。彼らがなぜ今も恐怖を感じているのか、加害者たちが未だに周りにいて、いつ同じことが起こってもおかしくない状況で生活するとはどういうことかを描こうとしていました。しかし撮影を始めた2003年、軍から脅迫を受け、制作をストップしなければならなくなりました。その時、生存した方々から、『加害者を取材してみてほしい』と頼まれました。危険かもしれないと思いましたが、実際に話を聞いてみると、彼らは恐ろしいディテールまでも楽しげに、時には家族の前で、笑顔で語りました。それはまるで、ホロコーストから40年後のドイツに足を運んだら、そこではまだナチスが権力をふるっていた、というような感覚でした。その撮影素材を生存者や人権団体に見せたところ、誰もが『撮影を続けてほしい。これは何かとても大事なものだ』と言いました。そして2年をかけて様々な加害者から話を聞き、今作に出演するギャングのアンワルは41人目に出逢った加害者でした。私は、被害者たちが恐怖を感じることなく自分たちの恐ろしい現実について話せる場となる映画を作りたい、という想いを持ちました。

──撮影にあたってのスタッフの体制はどのようなものだったのでしょうか。
「スタッフの数はとても少なかったです。ギャングのアンワルとその仲間たちが、どのシーンを撮影するかといったことを議論しているあたりはなるべく地元の方々と一緒に作り上げてほしいと思いました。ですからパンチャシラ青年団の団員を助監督に雇い、国営テレビの昼ドラに関わっている現地のスタッフに参加してもらい、いくつかのシーンを演出してもらっています。しかし、核となるスタッフは5、6人でしたので、かなり大変なこともありました」

──多くのスタッフが匿名になっている理由は?
「匿名にしているのは、いまだ、彼らの身に危険が及ぶかもしれないからです。大学教授、記者、人権団体のリーダーでしたが、自分のキャリアを変えてまで、8年間という時間をこの作品のために費やしてくれました。それも、この国に本当の意味での変化が起こらない限りは自分の名前は明かせない、ということを知ってのことでした」

──この作品が完成したことが、アンワルと仲間たち、スポーツ副大臣らにどのような影響があったでしょうか。
「もちろんこの作品の制作に参加することを通じて、アンワル自身にエモーショナルな影響がありました。そしてアンワルの相棒であるヘルマンについてはパンチャシラ青年団を辞め、また、唯一メダン市でこの『アクト・オブ・キリング』を公式に上映してくれました。しかしその他に大きな変化というものはありません。もちろん、アカデミー賞ノミネートをきっかけにインドネシア政府が初めて65年の虐殺は間違いであったと公式に認める、という変化はありました。大統領のスポークスマンが、この映画に出てくるような人々を嫌悪すると述べたのです。しかし、その言葉が元副大統領やパンチャシラ青年団のリーダーを断罪することになるのだと、彼が理解していたかどうかは分かりません。政府は時間をかけて和解を達成するつもりだと言っていますが、それはこれまでの見解とは180度違うものですから、その意味では変化と言えると思います。
ジャーナリストたちもこの問題についてオープンに語れるようになったものの、記事の中にパンチャシラ青年団という具体名は登場しません。語られるとすればSNSの中だけというのが現状です。そして様々な政治家たちも特にとがめられることなく政治活動を続けていますので、そういう意味での大きな政治的変化はまだ訪れていません。マスコミでプレマン、ギャングスター、政治との癒着などは勇気を持って取り上げられるようになりましたが、実は個人名はほとんど出てきません。これはおそらくそれぞれの政治家に繋がっているチンピラたちを恐れてのことだと思います」

「西洋諸国や日本を含む各国が責任を負うべきだ」

──参加した方々が、法律的な意味で危険にさらされているということはありますか?
「法律的な観点から言えば罪に問われることはありません。国連の方で、ユーゴスラビアでもカンボジアでも行われたような形で追求することはできるはずですが、それについては国際社会、例えばアメリカやイギリスが名乗り出る必要があるため、非常に難しい状況です。ただ個人的に思うのは、これは地域だけの問題ではなく、当時の虐殺やそれを行った政権というものを指示して来た西洋諸国らが責任を負うべきであり、それは日本も例外ではありません。私は日本のエキスパートではありませんが、虐殺当時政権を支援し、その後のスハルト政権を支持して来たわけですから、そういう意味では日本の関与というのもきちんと見つめる必要があるのではないかと思います」

──監督が出演者たちに演出をして、彼らにどのように人を殺めたのか仕掛けていったように思えます。途中からその仕組みがどんどん大掛かりになっていきますが、もともとそういう予定だったのでしょうか。
「彼らがコントロールしたのは、自分たちがどういうシーンを作りたいか、そしてそれをどのように作るのか、という部分です。そういう場面でも、質問があればどんどんしましたが演出という意味では、自分はとくに何もしていません。思った通りに、自分たちの殺人を演じてみてください、とお願いしただけです。作品が彼らのもののように感じられるのは、アンワルたちに当事者意識があったからだと思います。アカデミー賞にノミネートされたときもアンワルは受賞してほしいと言っていました。それは虚栄心からではなく、自分の物語を人々に知ってほしいという想いがあったからです。初めてこの映画を観たあと、彼は僕に『自分であるということがどういうことか、これでみんなに分かってもらえる』と言い、とてもエモーショナルな反応を示していました」

「仕組みがどんどん大きくなっていった、ということに関しては、これは撮影方法によるものです。一度何かのシーンを撮る、撮り終えたらそれをアンワルに見せる、アンワルはそれを観て、おそらく自分が直視したくないものから逃げるために、『この演技は良くない、服装が良くない』と、新しいことを提案し始め、それをまた映像化する。それをまた彼に見せてフィードバックをもらう。そして撮影する、という流れの中でどんどん大掛かりになっていき、最終的にはあの滝のシーンに行き着いたわけです」

──登場人物たちは、この作品を観てどのような反応を示しましたか?
「アンワルには作品が出来上がったら観てほしいとずっと伝えていましたが、彼は観ることに怖じけづいてしまいました。トロント映画祭の後、彼をジャカルタにあるインターネット環境の良いホテルに連れていってもらい、スカイプを通して彼のための試写を行いました。映画を観た彼はとてもエモーショナルになり、当時の記憶が戻って来たのか、あるいはショックを受けたのか、作品が終了したあとは20分間沈黙していました。その後、バスルームへ行って戻って来た彼は『自分であることがどういうことかが分かる映画だ』と言いました。そしてまたしばらく沈黙してから、『自分のしたことをただ描くのではなく、そのことの意味が描かれていてとてもホッとしている』と言っていました。痛みを伴う経験ではあったけれど、彼の中では少し安堵する何かが感じられたのではないかと思います。その様子を見ていた私は、まるで彼の闇を一緒に見ているようでした。その闇は、おそらくみなさんも見ているものだと思います」

「『アクト・オブ・キリング』は人間であることの意味という難しい問いを投げ掛けます。過去を持つということはどういうことか?物語を語ることを通じて我々はどんな現実を作ろうとするのか?そして、最も重要なことは、我々は最も苦く、消化しがたい事実から逃がれるために、物語を利用しているのではないか?という問いです」



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