カイロじじいのまゃみゅむゅめも

カイロプラクティック施療で出くわす患者さんとのやり取りのあれこれ。

訪問医療、看護を、ラっちん

2010-04-28 16:01:51 | 本日の患者さん
昔話が多くて、徳さんもすっかりジジめいて来たなとは思っている。

昔々、徳さんたちが少年だった頃だから、それはもう大昔の話になるんだが、その頃は子どもが熱を出したりすると、お医者さんが家まで来てくれ、往診してくれたものだった。夜中に往診してもらった記憶も何回かある。
当時、お医者さんは長生き出来ないとされたものだった。
医者の使命というものが子供心に直に伝わって来たものだった。

さて、褥瘡奮闘中のラっくん。

紹介されて行った大学病院の先生の対応は、投薬と患部に圧力を掛けないようにとの指示のみで、今ひとつの感。

徳さんも、最近重症の褥瘡に苦しめられていたおばあちゃんの介護をして来た人に聞いてみた。色んな職業に携わっている患者さんがいる、というのは一つの財産だ。

彼女によれば、
まず、栄養管理をしっかりして体力をつけること。
ひんぱんに体位交換をすること。
患部を徹底的に清潔にすること。1日に二回風呂に入り、患部を洗浄する。この場合、血が滲んで来ても構わない。
患部を乾燥させない。など。

これらは、彼女が皮膚科の訪問医から指導された事なのださうだ。

毎日の繊細な看護が必要とされる褥瘡。
その人それぞれの生活環境の中で持続的に実現されなければならない。
訪問医、訪問看護士の派遣、指導がどうしても必要のようだ。

現在、ラっくんは、自冶体に訪問医の派遣を交渉している。
ラっくんは重度の身体障害者ということで生活保護を受けている。
緊急を要する医療も、自冶体の許可が下りなければ受けれない、、、。






味覚の刷り込み

2010-04-27 16:30:23 | 本日のしりきれとんぼ
60歳を過ぎて、なおこんな駄菓子に目がないなんて我ながら呆れる。
国分寺室の近くのスーパーで見つけ、恥ずかしげもなくレジに並んだのだ。
この季節、『武者太鼓』なんて名前がついているけど、ついこないだは『五色』だったか?ともかく幼児を対象にした米菓子である。

徳さんたちの少年時代、『バクダン』とか『ポン菓子』と言っていた。
おっさんがリヤカーに圧力釜を乗せて町の広場などで実演しながら作ってくれた。
徳さんたちは、家から米と砂糖を持って行くのだった。
ともかく、米や砂糖を持って行く道中のウキウキ感は今でも忘れられない。
そして〝ドカ~ン〟と大音響をさせ、出来上がった『バクダン』は当然出来立てで、ほのかな甘さと香ばしさで、最高のお菓子だった。
製造過程に立ち会える面白さもあったに違いない。



こんなものが出来るようになったきっかけは何だったのだろう?
発酵食品のようにある環境の中に放置して、自然の営みの中で出来たものを発見したとは思えない。
長年の疑問だったが、今回は調べてみた。例のウィキペディアである。
やっぱり、失敗、事故だった。そのきっかけは。

1901年ミネソタ大学の研究者だったアレクサンダー・ピアース・アンダーソンが、穀物の研究中、米が膨化することを発見した。米を試験管に入れオーブンで熱する工程で、誤って試験管に蓋をしてしまい、試験管を破裂させてしまったことによるものだった。膨化工程は非常に危険であったが、1902年に大砲を利用して安全に膨化処理を行うことに成功。アンダーソンはさまざまなものを膨らむかどうか実験している。その後特許を取得し、クエイカーオーツと共に商品化を行い、米のポン菓子を「パフライス」として売り出した。1904年にミズーリ州で開催された万国博覧会で大砲を利用した派手なデモンストレーションを行い、大衆に広く認知され、たちまち大人気となり広まった。

ブックカバー

2010-04-26 18:45:33 | 本日のおしつけ商品
通勤電車で可能であれば本を読むのを常としている。
座れればこんな幸運はない。
最低でもつり革にぶら下がることが出来て、やっと読書可能な状態になる。
若い人のように、何にも掴まらず、両足を踏ん張って、電車の揺れにバランスを取りながら本を読むなんて出来やしない。情けナや、、、。

車中で本を読む時、もう一つ気にかかることがある。

表紙をむき出しにして読んでると、周囲の人に何の本を読んでるか判ってしまうのが気にかかる。
別に怪しい本を読んでる訳ではないのだが、見知らぬ人に己を値踏みされているようで、その時読んでいる本によっては落ち着かない。(というのは、徳さん、逆の立場でそれをやっているということだが)

そんな時、ブックカバーが役立つ。



これは、新宿カイロの国分寺室に併合している『やす~ど』でつくり販売をしているものだ。
和服地を使ったものだ。裏地も良いものを使っている。品がよろしい。800円也。
徳さんは気に入っている。

現在、注文はゼロだが、、、。


王様は裸だと言った子供はその後どうなったか

2010-04-25 16:44:35 | 本日の抜粋

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わかりやすい例を挙げれば、マムシのハザードはきわねて高い。噛まれれば大人も死ぬ場合がある。でも(特に都会に暮す人にとっては)リスクは小さい。なぜなら都会にはマムシはほとんど棲息していないからだ。だから都会に暮すかぎり、すくなくともマムシの危険に脅える必要はない。
 綿密なデータを集積しながら、中西さんは様々な因子のリスクとハザードを客観的に検証する。その帰結として、リスクが小さいものに一極集中して大騒ぎする日本人の傾向が現れる。もちろんこの背景には、危機を徒に煽り立てるメディアの存在が大きく働いている。有害アイテムとして喧伝される数々の危険な因子には、実はリスクが低いものが少なくないという事実が、こうして明らかにされてゆく。しかし彼女のこのスタンスは、エコロジーの分野では異端となるようだ。

森 達也 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』より 集英社新書

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古今東西のお伽噺をパロディ化し、人間の営む組織共同体が生み出す悲喜劇が解釈されてる。

第十五話の《泣いた赤鬼》では、人間が戦争や虐殺を引き起こしてしまう仕組みを組織共同体が宿命的に持つ負のダイナミズムだ、としている。
滑稽感を滲ませて描かれた続編《泣いた赤鬼》は悲しくすらある。

引用部は、工学博士の中西準子氏の『環境リスク学―不安の海の羅針盤』を紹介してる箇所だ。
徳さん、まだ読んだことはないので、孫引きを避けました。

図書館行って、借りてこよう。

注)ハザードとは毒性度そのもの。リスクとは摂取量を考えに入れた危険度

褥瘡奮闘中のラっちん

2010-04-24 20:09:54 | 本日の患者さん
ラっちんの褥瘡がひどくなった。

ラっちんは胸から下の感覚が麻痺している障害者だ。
車椅子を使用して、地域で自立生活をしている。

どうしても車椅子に乗る姿勢が限られている上に、下半身の感覚が無いので褥瘡になり易い。これまで何度も褥瘡になっている。

近所のかかりつけの医院に行ったところ
「うちでは無理なので紹介状を書くからそちらに行くように」

紹介された某大学付属病院では
「褥瘡の治療は何処でも一緒なんだけどな」
なんか面倒くさがってる印象だが、今はそのことは言うまい。

大学病院での診断は、ラっちんの褥瘡はすでにステージが高く、骨が見える寸前までになっているのだそうだ。
しかし、その処方は、塗り薬をくれ、患部に圧力をかけないよう注意するだけというもの。
塗り薬は1か月分渡され、薬が無くなった時点で外来に来なさいと、、、。

そりゃないだろう?某大学病院の某先生!

褥瘡は毎日の注意深いケアが要求される、繊細で厄介な病態を持っている。
患部のケアを介助者に委ねなければならないラっちんの場合、介助者にケアのノウハウを指導しなければ意味が無い。
洗浄の話もされなかったそうである。

洗浄に関しては、徳さん思い入れがある。

褥瘡の話ではないが、印象深い二人の患者さんがいる。

Wさんは若い頃に肺結核の病歴があるが、年を取ってから膿胸になってしまった。
その時、Wさんは死を覚悟したそうである。
幸い手術は成功したが、肋骨を6本切除し、肩甲骨の下の筋肉ごと抉り取るというものだったため、傷口を縫い合わせることが出来ず、ぱっくり傷口の開いたままの退院だった。
その時、担当医は、ともかく傷口を水道水でいいから毎日洗浄することを厳命した。
Wさんは律儀な性格もあって、3ヶ月間洗い続けた結果、徐々に皮膚が盛り上がり、やがて傷口は塞がったのだ。
徳さんもその手術跡を見せてもらったが、ピンク色のそれはもうきれいといっていいような傷跡だった。

Sさんは重い蓄膿症。
大病院で手術を勧められるが、高齢になってから顔の手術を受けるのに抵抗感が強く、手術を受けるのを断った。
「もう、今まで何回か色んな手術をしたんですよ。この年になって、いまさら顔の手術なんでいやですわよねえ」
やむなく担当医はSさんの家の近くの耳鼻科を紹介。
これが大幸運。
年配の先生だったが、Sさんの意向を聞いて、毎日、鼻の洗浄に通うよう指示。
完治したかどうかはSさんも言い切れないそうだが、しばらくして以前診察してもらった大病院に行ったところ、手術を勧めた医師もびっくりする改善ぶりだったそうだ。
「いまの大学病院には、難しい技術を持った先生はいるけど、鼻の洗浄を上手く出来る人はほとんどいないんですよ」
とは、その時の担当医のお言葉だったそうだ。

ナイト・トレイン異境行

2010-04-23 19:07:17 | 本日のしりきれとんぼ
画像を見て欲しいんだけど、本の表紙が光っているでしょ。

これは、最近、図書館で借りたものなんだけど、国分寺市の図書館には置いてないという事で、都立の図書館から借りてきたものだ。
コンピューター管理で便利になったものだ。

本の表紙の光は、他の図書館のものなので、本来の閲覧状態の上にまた一層ビニールカバーを付けている。
他の図書館に対する配慮なのだ。
表表紙の裏側には、
この図書資料は、都立・他市・他区等の図書館から借用したものです。
取り扱いには十分注意をしてください。
返却については、資料が傷みますので、ブックボックスを使わず、直接カウンターまでお返しください。
などと書いてある。

徳さんは、日本人だなあ~、と思ってしまった。
他の共同体とはトラブルを起こしたくない。
親戚関係にあるような同様の機構の中では、なおさら弱みは見せたくない。
そのためには自分たちが設けている制度を強化する。
自分たちの制度は不徹底だと認めることになっても、他の共同体への見得の方が優先する。

もちろん、これらの行為は無意識の下に行われているのだ、、、。

こころをさなき世界のために(後日版)

2010-04-21 16:54:51 | 本日の抜粋

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 純粋さや善良さが殺戮につながっているという認識は大切で、昆虫を殺してしまう子どものように、暴力衝動は、誰にとっても原初的なものなんじゃないかというきがします。(中略)
 ぼくはヒトラー・ユーゲントにせよ、紅衛兵にせよ、クメール・ルージュにせよ、子どもの発するイノセント性の高い暴力がとてもきになっていて、暴力の起源は、ひょっとすると子どものなかにあるんじゃないかとおもっています。とくに虐殺や戦争の規模になると、そのチャイルディッシュな側面がとても気になるんです。だってね、やっぱり道徳や理性など、成熟した規範を前提に考えれば、こんな事態は絶対に起きるはずがないんです。(中略)

 外に向かっては異なる共同体への秘めた憎悪の解放、内に向かえば内部の異物に対する自己抑制の解除。そう言うと図式的になるけれど、敢えて言うと、虐殺にはそういう一面があるのかもしれません。だから、極端に言えば、どこかでカタルシスにつながるところがあるんじゃないでしょうか。(中略)
 だから、僕は、戦争はきっと抑止できると信じているけれど、虐殺には対処しようがないところがあると思う。虐殺という現象は、もしかしたら人類が未来永劫にわたって抱えなければいけない、重いリスクじゃないかという気がする。

森 達也 『こころをさなき世界のために』より 洋泉社

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後日です。

患者さんに、地方自治体で虐待問題の窓口を担当してる方がいる。
時々、親の我が子に対する虐待振りが語られる。
スキャンダラスに報道されると何か特殊な犯罪のように思われがちなそれは、実は裾野が広く、様々なレベルで虐待が日常的に起きてるようだ。
行政として対応に奔走しても、対応し切れないとの事。
そして、その対応も応急手当に過ぎず、解決への方図を持っていないのが現状だと嘆かれていた。

虐待やいじめと虐殺や戦争はスケールも違えば構造も違う。
だけど、自分自身をも含めて、人間は壊れた生き物。
平穏な日常生活の傍らに、壊れた生き物といての行動へ向けたボタンスイッチが常に置かれていることを自覚しなければならない。

小さいレベルでは、徳さんも時々このボタンを押していることに気付かされ、ハッとすることがある、、、。



こころをさなき世界のために

2010-04-20 18:26:04 | 本日の抜粋
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 虐殺や戦争など、組織や共同体が暴走するときには、そこに所属している個人の普段の志向や情念が、止まっていると僕は考えます。つまり、主体性をもった個の集積が、やむなく組織の圧力に巻き込まれるのではなく、個における他者に対しての想像力や情感がまず先に止まり、そのあとから組織の暴走がはじまります。 
 だから、組織の暴走がはじまるときには、個人的な主体という意味での主語が常に失われている。「我々」とかあるいは、「国家」とか「党」とかね、とにかく一人称が消えてしまう。あるのは、個の喪失が積み重なってできた無人称の巨大な空白だけで、組織の暴走は、いわばその空白の力によって引き起こされてしまう。

森 達也 『こころをさなき世界のために』より 洋泉社

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今日はこれから飲み会で、時間が迫っておりまする。
気持ちがそちらに行って、この先、考えながらキーを打つのは不可能かと、、、。

後日、ここに立ち返ることを誓いますです。

人知れず肩痛、ミャーフスキーズナークちゃま

2010-04-19 20:37:10 | 本日の患者さん
「急に痛くなったのよ。肩の後が」
「腕を上に挙げたり、横に伸ばしても平気なのに、ちょっと、この角度、イタタッ。五十肩かしら?」

腕を後ろに引いた時のある角度でだけ、痛みが走るようだ。

「朝起きて、腕を上に挙げても平気だから最初気付かなくって、スパッツをはこうとして気付いたのよ」

腕を上に挙げれるのだから50肩ではない。

「何も変わった事はしてないわよ。何でこうなったのかしら?」

これだけでは、徳さんにも何のことやら見当も付かない。
ともかく、痛い現場から少し離れた筋肉や靭帯を緩めることから始める。これはかなり痛い。
しかし、他人の痛みには慣れっこになっている徳さん、ミャーフスキーズナークちゃまが声を上げながら足をバタバタさせても知らぬげ。
根掘り葉掘り、ミャーフスキーズナークちゃまの前日の行状を聞いていく。

原因判明。
ミャーフスキーズナークちゃまは前日、5,60件のメールを夜遅くまで打ちまくっていたのだ。
右手でものを書きながら左手だけでメールを打つのが習慣になっていたミャーフスキーズナークちゃま、携帯の文字ボタン操作のやり過ぎである。

介護のコーディネーターをしているミャーフスキーズナークちゃまは、この時期、介護者の学生さん達の受講状態を照らし合わせながら介護体制を組み立てなければならない。
利用者の希望、父兄の希望、介護者の事情をそれぞれ考慮して組み立てねばならない。
明日の介護体制、明後日のそれ、から始まって長期的な展望も確立させなければならない。

ミャーフスキーズナークちゃまの肩の痛みは、普段あまり使われない弱い筋肉を突然酷使したことによる急性の炎症と考えたら良さそうだ。

現場では、このように行政からは評価されないところでの苦労が絶えない。
そして、行政の評価しないこのような裏方行為の蓄積、伝達こそが社会福祉だと思う。徳さんは。

スキルを失った組織

2010-04-18 18:18:09 | 本日のしりきれとんぼ
一通り体に関するお互いの話が終わると、施療中に患者さんと四方山話になる。
もちろん、カイロ施療中に無駄話をするのを嫌う方もいるので、そんな時は、互いに押し黙ったまま、時を過ごすことになるが、、、。

最近、徳さんが気になる傾向を示す話を聞くことが多い。
それは集団についてというか、組織についてというか。

A「子供の卒園記念アルバム作りで昨夜は夜中の3時まで起きてました。子供が寝てくれないことには取り掛かれないので大変です。幼稚園に提出するのでいい加減には出来ないし、、、」
「え!そんな事、お母さんがしなければならないんですか?」

なんでお母さんが、卒園記念アルバム作りをしなければならないのか、徳さんには理解できない。ただでさえ忙しいお母さんの手を煩わす必要はないと思いますがね。
子供の幼稚園生活はお母さんにとってもかけがいのない宝物、という発想なのだろうが、各家庭の事情は様々なのをお忘れじゃ。
施設が責任を持ってすべてをやります、という姿勢がない。

B「うちの子は、小学校で注意欠陥多動性障害の疑いを持たれ、目を付けられているようです。テストの時は回答を済ませると落ち着きなく友達にちょっかいを出したりするものだから、校長室で一人テストを受けているんです。体育の時間では、体育服に着替えるのが遅れると言って、見学者に回されることが度々あるんです」

これって、共同体の排除の論理だよね。
小学生の頃から先生にこんな扱いをされたら、徳さんなら絶対に反抗児童になってやる。
先生のこんな振る舞いを見て育つ生徒の将来像も怖い。
共同体の中に異質なる者がいたとして、その時、共同体はどう振舞わなければならないか?という格好の教材を、能力不足ゆえに捨て去っている。

C「定年間近でうつ病になり、しばらく闘病したあと復職を段階的に進めて行く過程で、人事課の指示する方針は、そのどれもが、その人にとっては屈辱的な、しかも無理のあるものばかりなんですよ。まるで、さっさと辞めてくれ、と言わんばかりの」

某官公庁の話だ。高額の給料を貰う定年間近の職員の削減は、経費削減に繋がるとして、明日のわが身との考えも持たずに、人事部幹部は非情に話を進めて行く。
こんなんじゃ、内部の士気は期待できないと、徳さんは思ってしまう。
国民が求めている、官公庁の経費削減要求の一つは、こんな、頓珍漢な仕事を飽きもせずやっている幹部職員のカットじゃ。