
映画の始まりと言われるトーマス・エジソンが1891年に発明した「キネトスコープ」が、
130年以上たってもメディアとして生き続けていることはとてもありがたいことです。
人びとの懸命な努力があるからこそ継承されているのだと思います。
この映画を観ることは上映当時の自分自身の「こころ」に帰ってみることができるのです。
貴重な体験を映画は与えてくれています。
ありがたいことです。
見出し写真は『バッドランズ』のチラシです。(当たり前すぎますが)
前半を書いている時には手元のなかったのですが、今日入手しました。(それがどうしたって)
そうです。このチラシの写真をみて、監督の意図の片鱗が窺えたように思いました。
現在から思えば半世紀以上前のアメリカン・ノスタルジーですが、
事件後10数年に製作された映画でもすでにノスタルジーだったことに混乱します。
さて後半です。
広大な荒れ地の中をキャデラックで道なき道をでたらめに疾走します。
夜通し走りガソリンスタンドで給油を頼むシーンでも従業員を簡単に撃ち殺します。
とにかくすぐに銃を使います(短銃だったりライフルだったりで)。
このあたりでついていけなくなります。
この男、何を考えているんだろうかと。このことを探るのは徒労なんですが。
やがて警察の捜索が狭まり(連続殺人ですから治安上の大問題です)、パトカーに追跡されるようになります。
カーチェイスです。アメ車ですからガタイも大きく馬力もあります。
それで悪路を突っ走るのですから画面から飛び出すほどです。
ヘリコプターからも銃撃を受けますが、地上戦に持ち込み警官を射殺します。
これは明らかに戦場の戦闘です。不意打ち、背中への銃撃ありです。
ひとりVS 多勢の戦いです。
最後には力尽き降伏します。
両手をあげ、渡された手錠を自ら施錠します。
最後の抵抗をするのではないかと思いましたが、あっさりと逮捕されました。
キットの戦いは軍隊の戦い方でした。敵を行動不能にするためには手段を選ぶ必要のない戦い方です。
しかし降伏して捕虜になれば身の安全は保障されます。降伏は生きるための手段です。
彼の戦いはそのようなものでした。
しかし、アメリカ国内は法治国家です。
殺人者には極刑が待っています。
彼は電気椅子に送られます。
(描写はありません。いわゆるナレ死です。戦闘シーンは多いのですがあっさりとした描写です)
戦場との違いをキットはどう思ったのか。
もちろんわかりません。
逮捕された彼の周りには大勢の軍隊や警察が担当の現場から戻ってきます。
彼を見つめる人々は彼に畏敬のまなざし注いているようでした。
逮捕した警察官とは握手までしています。
米国には「西部劇」のヒーローであるビリー・ザ・キッド、また帰還兵であるランボーに喝采を贈る精神的な風土があります。
その現場をみた思いです。
おっと、もう一人の主役ホリーはどうなったのでしょうか。
彼女も感情が表面に出ません。
父親に愛犬を殺され、その父親がキットに殺されても内面が表情に出るわけでもありません。
今まで庇護されていた父親がキットに替わったように思えます。
心の奥底があるのかないのかもわかりにくいです。
キットについていき、いよいよとなったときに、私の道を行くと言って分かれます。
もちろん殺人に手を貸してはいません。
そのため、判決では執行猶予がつき釈放、後に弁護士と結婚します。
この判決は彼女に主体性を認めていないことになります。
キットに付随しただけだったというわけです。
ではこの映画の主役は何だったのかですが、
まさに『バッドランズ』です。
荒地です(地名でもあります)。
果てしない荒野の中でのちっぽけな人間。
その中に現出する機械文明。
車、大陸横断列車、ヘリコプター、飛行機と当時の機械文明の申し子がばっこします。
相まって壮大な風景であり主役でした。
(※撮影に日本人が参加しています。エンドロールにタク・フジモトとありました。知らなかったので検索しました。びっくり!大きなオマケ)
テレンス・マリック監督は1973年にこの映画を、5年後には『天国の日々』をつくります。
こちらは有名です。
シネマクレール丸の内では同時上映してます。
見逃してなるかと本日また映画館に行きました。
『バッドランズ』 の続編のような映画でした。
最高です。
また書きますのでよろしければお読みください。
長文、失礼しました。
ウクライナとガザに平和を!
マッチョな男たちよ!さっさと退場しろ!