十次は、多くの孤児を抱えながら、全員の衣食住をまかなって
いかなくてはならない。
収容児童一人あたり1ヶ月2.5~3円必要だったという。
ということは100名規模で、250~300円が必要なわけで、
これはお米に換算するすると(1円=20kg)だから、5000~
6000kgに相当する。
今、10kg4000円として、200~240万円の価値になる。
一人あたり月2~2.4万円で、院の経営すべてをまかなって
いたのだから、当時でも大変なことであったと思う。
さて、月200~240万の維持費は100名あたりであるが、最盛時、
岡山孤児院は1200名である。どの程度、維持費がかかるのか、
想像できるが、とんでもない数字である。
現在の貨幣価値に換算して、月3000万円程度である。
その上、これから話が展開されていくことになるが、小舎制と
いう家庭単位の住居を、何十という単位で作っていくことに
なる。その土地購入や建物の新改築にも膨大な費用がかかる。
どうするのだろう。
まさに神にすがる思いだったことだろう。
これは冗談ではない。
そのような孤児院を英国で経営している先人がいた。
ジョージ・ミューラーという牧師である。
イギリスのジョージ・ミューラ―牧師(1805-1898)は
祈りだけで孤児院を建て続けた、として有名である。
彼はこう述懐している。
「私は祈りの時間になるといろいろな雑念に悩まされて
来ました。子どもたちに今度はどのようなメッセージを
しようか、今月の食費はどう工面しようか、などなど。
あるとき神は私にこう教えてくださいました。
『まず、あなたのたましいを喜ばせなさい!』。
以来、私の心は慰められ、励まされ、
いつでも希望を持てるようになったのです」※
十次がどのような経緯でミューラ―牧師を知ったのか定か
ではないが、当時は、有名なひとだったのだろうか。
十次はこの師に1歩踏み込んででいる。
渡英して直接ミューラ―牧師に教えを乞おうと手紙を書いている。
1890年(明治23)のことである。
1891年(明治24)、ミューラ―牧師より、渡英中止の勧告が
届いた。理由はわからないが、1805年生まれの牧師は高齢でも
あり、わざわざ遠い極東の島国から来てもらっても教えること
はないと書いたのか。
私はこのように想像する。
ミューラ―牧師は、「あなたの事業について、あなたに教える
ことができるのは唯一、神のみです。あなたは遠い英国まで
来なくても、祈りの中から、道を教えていただくことが
できるのです。祈りの時をもちなさい」
このように私が想像する理由にひとつに、留岡幸助が感化院
教育を学ぶために、米国留学をする時、その留学相談のため、
十次のもとを訪れた時の話がある。
十次は、幸助の米国留学に反対する。
なぜかわからなかった。
明治期である。留学することに意味を見出さないことは
理解できなかった。
十次にはミューラー牧師のことばがあったのではない
だろうか。
ならば、わからないでもない。
日本の感化教育は、日本独特のものでよい。
キリストの教えがあるのなら、必ずや導かれるはずだと。
幸助は、十次の反対を押し切って、米国に留学する。
では、十次の反対に意味はなかったのか。
これは、これからの課題であるが、幸助は結果として
米国の感化院教育をそのまま日本での事業に取り入れては
いない。
取り入れているのは、十次の小舎制=家族主義なのである。
このあたりは大変興味があるところで、
ぜひ調べていきたい。
※インターネットから引用 勝利教会のホームページより
いかなくてはならない。
収容児童一人あたり1ヶ月2.5~3円必要だったという。
ということは100名規模で、250~300円が必要なわけで、
これはお米に換算するすると(1円=20kg)だから、5000~
6000kgに相当する。
今、10kg4000円として、200~240万円の価値になる。
一人あたり月2~2.4万円で、院の経営すべてをまかなって
いたのだから、当時でも大変なことであったと思う。
さて、月200~240万の維持費は100名あたりであるが、最盛時、
岡山孤児院は1200名である。どの程度、維持費がかかるのか、
想像できるが、とんでもない数字である。
現在の貨幣価値に換算して、月3000万円程度である。
その上、これから話が展開されていくことになるが、小舎制と
いう家庭単位の住居を、何十という単位で作っていくことに
なる。その土地購入や建物の新改築にも膨大な費用がかかる。
どうするのだろう。
まさに神にすがる思いだったことだろう。
これは冗談ではない。
そのような孤児院を英国で経営している先人がいた。
ジョージ・ミューラーという牧師である。
イギリスのジョージ・ミューラ―牧師(1805-1898)は
祈りだけで孤児院を建て続けた、として有名である。
彼はこう述懐している。
「私は祈りの時間になるといろいろな雑念に悩まされて
来ました。子どもたちに今度はどのようなメッセージを
しようか、今月の食費はどう工面しようか、などなど。
あるとき神は私にこう教えてくださいました。
『まず、あなたのたましいを喜ばせなさい!』。
以来、私の心は慰められ、励まされ、
いつでも希望を持てるようになったのです」※
十次がどのような経緯でミューラ―牧師を知ったのか定か
ではないが、当時は、有名なひとだったのだろうか。
十次はこの師に1歩踏み込んででいる。
渡英して直接ミューラ―牧師に教えを乞おうと手紙を書いている。
1890年(明治23)のことである。
1891年(明治24)、ミューラ―牧師より、渡英中止の勧告が
届いた。理由はわからないが、1805年生まれの牧師は高齢でも
あり、わざわざ遠い極東の島国から来てもらっても教えること
はないと書いたのか。
私はこのように想像する。
ミューラ―牧師は、「あなたの事業について、あなたに教える
ことができるのは唯一、神のみです。あなたは遠い英国まで
来なくても、祈りの中から、道を教えていただくことが
できるのです。祈りの時をもちなさい」
このように私が想像する理由にひとつに、留岡幸助が感化院
教育を学ぶために、米国留学をする時、その留学相談のため、
十次のもとを訪れた時の話がある。
十次は、幸助の米国留学に反対する。
なぜかわからなかった。
明治期である。留学することに意味を見出さないことは
理解できなかった。
十次にはミューラー牧師のことばがあったのではない
だろうか。
ならば、わからないでもない。
日本の感化教育は、日本独特のものでよい。
キリストの教えがあるのなら、必ずや導かれるはずだと。
幸助は、十次の反対を押し切って、米国に留学する。
では、十次の反対に意味はなかったのか。
これは、これからの課題であるが、幸助は結果として
米国の感化院教育をそのまま日本での事業に取り入れては
いない。
取り入れているのは、十次の小舎制=家族主義なのである。
このあたりは大変興味があるところで、
ぜひ調べていきたい。
※インターネットから引用 勝利教会のホームページより