
今回の大峯山行では、修験の難路である大峯奥駈道の一部を歩きました。
大峯奥駈とは、「吉野から大峰山脈の尾根を踏み越えて熊野本宮に達する約170キロのルートで、この間、靡(なびき)という手向けの場所が75か所ある」
75靡と呼ばれている。
靡は、西国33か所巡礼の「所」と同じといっていいらしい。
この靡も時代により様々な変遷があったという。
研究されている方の書物(『大峯縁起』銭谷武平著)を読んでも理解できないことが多い。
なにしろ、西行もこの難行に挑戦して歌を残したというほど古い歴史がある。
人の分け入ることが困難な山中のこと。
今では、それこそ藪や霧のかなたに消えていったのだろう。
いま、歩いても困難な道。修験者にとっては命がけの修行だったに違いない。
和佐又ヒュッテから大普賢岳には、窟といわれる靡であり宿泊場所がいくつもある。
その日も、雨の中、修験者が祈られていた。
西行もこの窟で泊まったといわれている。
「露もらぬ 岩屋も袖が ぬれけりと きかすばいかに 怪しからまし」





まさに断崖の下に自然にできた岩窟である。
雨露を防ぐ貴重な宿にもなったことだろう。
もちろん、祈りの場でもあります。
大峯奥駈とは、「吉野から大峰山脈の尾根を踏み越えて熊野本宮に達する約170キロのルートで、この間、靡(なびき)という手向けの場所が75か所ある」
75靡と呼ばれている。
靡は、西国33か所巡礼の「所」と同じといっていいらしい。
この靡も時代により様々な変遷があったという。
研究されている方の書物(『大峯縁起』銭谷武平著)を読んでも理解できないことが多い。
なにしろ、西行もこの難行に挑戦して歌を残したというほど古い歴史がある。
人の分け入ることが困難な山中のこと。
今では、それこそ藪や霧のかなたに消えていったのだろう。
いま、歩いても困難な道。修験者にとっては命がけの修行だったに違いない。
和佐又ヒュッテから大普賢岳には、窟といわれる靡であり宿泊場所がいくつもある。
その日も、雨の中、修験者が祈られていた。
西行もこの窟で泊まったといわれている。
「露もらぬ 岩屋も袖が ぬれけりと きかすばいかに 怪しからまし」





まさに断崖の下に自然にできた岩窟である。
雨露を防ぐ貴重な宿にもなったことだろう。
もちろん、祈りの場でもあります。