岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【児島虎次郎】石井家との係わり。  石井十次その49

2005-04-12 07:10:33 | 石井十次
私は十次は審美眼があった人だと考えている。
洋風の建物に興味があったようだ。岡山孤児院の活版部の建物の
写真を見るとなかなか洒落ている。
絵画にも理解があったのだろう。
そうでなければ、画家に長女の友子を嫁がせることはない。
そうです。倉敷にある大原美術館の名画を収集したことで有名な
児島虎次郎は十次の義理の息子ということになる。

虎次郎は、岡山県の高梁市からさらに山奥に入った成羽町で
生まれた。1881年(明治14年)生まれだから大原孫三郎の
一つ下である。
幼少の頃から、画才を認められてはいたが、高等小学校を出て
からは、家業の鮮魚の行商などをしていた。家族が絵を生業に
することを許さなかったのである。

しかし、余程、才能があったのだろう。知人や親戚まで熱心に
家族を説得したという。
上京することが出来た虎次郎は、東京美術学校(東京芸術大学)
に入学、2回飛級したというから、図抜けた才能があったの
だろう。

では就学資金はどうしたのだろう。
当時は才能ある学生には奨学金を出そうという名士がいた時代で
ある。虎次郎の場合、その名士にあたるのが大原孫三郎だった。
美学生に奨学する孫三郎には、美術に対する造詣もあったの
だろう。

画学に励んだ虎次郎は、黒田清輝から美術展への出品を
勧められて、画題を考えた。そして撰んだのが「岡山孤児院」
だった。

虎次郎は孤児院で住み込みながら絵を書いた。真面目な生活態度
だったらしい。十次が「絵描きには惜しい男」というと、
虎次郎は「惜しまれるような絵書きにはならない」といったと
いう逸話があるが、出来過ぎではないか。

虎次郎と友子の出会いはこの時にあったと思われる。
もう1点、故郷の成羽で描いていた「里の水車」が1等賞となり、
共に皇后買上げとなり、今でも宮内庁所蔵となっている。
日本画壇への華々しいデビューとなった。

この後、虎次郎は4年に渡る渡欧生活を送る。孫三郎の支援
あってのことである。帰国した虎次郎に待っていたのは、
孫三郎が進めている縁談であった。孫三郎は十次に打診し、
十次は宮崎にいる友子を何も言わず呼び寄せた。

「ロシア美術家ニコライ・ガノー伝を本棚より探し出してこれを
読めり これ予が児島君に対する理想にして、かって大原兄より
友子をとご相談のありしとき予はこのガノー伝を記憶より
呼び起こしために決心せしがゆえなり」
(1912年12月5日  日誌より)

到着した友子は直ちに、この縁談を受け入れた。
友子がかって「岡山孤児院」で見知っていた虎次郎を悪くは
思っていなかったに違いない。虎次郎が洋行していた間に文通が
あったのだろうか。

この時期に十次は相変わらず、孫三郎に借金の催促を重ねている。
さすがに気が引けてる十次に向って孫三郎は、
「虎次郎は弟のようなもの。ならばあなたは、弟の義父になる、
気にしないでほしい」という趣旨の話をしている。
十次は、この孫三郎の言葉に、そのような深い考えで、縁談を
持ってきたくれたのかと感激し、日誌に記した。

1913年(大正2年)4月2日、倉敷で大原孫三郎・寿恵子夫妻の
晩酌のもと、ふたりの結婚式が行われた。
十次は妻辰子を伴い、宮崎から岡山にやって来る。
かって十次が初めて岡山に船に載って5泊かかった旅は、
別府まで船、それから汽車と2日間の旅になっていた。
その間に31年の歳月が経っていた。
幾度、この往復をしただろう。百回に近い回数ではなかったか。

やがて、必ずや最後の1回が来るのだが、まさかこれが最後の
1回とは。
さすがに十次も思っていなかった。

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