9月に北海道に旅をして、私自身の知識のなさを痛感したが、
中でも、戦時中の中国人・朝鮮人強制労働の実態には驚いた。
また、今朝の毎日新聞に、「強制連行で生き残り、60年ぶりに
来日した高文声さん」の話が載っていた。
どちらも紹介しておきます。
「戦時中の労働力不足を補うために、全国135事業所で
約3万9000人の中国人が重労働に就いた」
●室蘭市中国人殉難烈士慰霊碑
室蘭港湾使役に中国人1861人のうち564人死亡。
死亡率30.3%だが、他に大量の遺骨が放置されていることが
わかった。判明した遺骨だけで240名に上る。
●置戸町中国・中国人・朝鮮人殉難慰霊碑
北見地方では美幌・女満別・小清水の飛行場のほか、
鉱山で働かされた方々の慰霊碑である。
地元の方の証言が残っている。
「靴の代わりに南京袋やセメントの紙袋を足に巻き、
高野豆腐ほどの大きさのフスマで作ったマントウ2個の食事」、
「飢餓の1歩まえまでに食物が少なかったとのことである。
人間の衰弱したのはこれほどになるのかと驚くほかないほど
肉体が消耗し、まったく骨に皮がまとっている状態で、
大人であるのにじつに体重27kgとなったものを労働させた
もので、ほとんど30kg台であった」
中国人強制連行の記録「草の墓標」より※
では、中国人の方々ははどのようにして日本に連行されたきたの
だろうか。
高文声さんの話を毎日新聞から引用します。
「故郷の村で抗日軍の看護兵をしていた17才の時、旧日本軍に
捕まり、終戦の1年前に、大阪市内の造船所に連行された」
中国人の強制連行は、北海道でも1944年が多いことでわかる
ように、ほぼ一年間で約4万人が日本に連行されたのだろう。
この連行が計画的に行なわれたことは明かだ。
高文声さんの証言。
「待っていたのは、過酷な労働と飢え。長さ2~3mの鉄板を
9時間運び続け、日本人寮で布団の片付けなどの雑役も。
わずかなまんじゅうでは空腹は満たされず、海草を拾って
むさぼった。セメント袋を体に巻いて冬の寒さをしのいだ」
全国の事業所の待遇も似ていることがわかる。
毎日新聞の記事を最後に引用させていいただく。
「あれから60年。大阪港を望む公園に、大阪市内での
重労働後に死亡した中国人86人を追悼する碑ができた。
『日本の友人が努力してくれたことは感謝する。しかし、
愛する人に別れも告げられず、異郷の地でなくなった
同胞の無念を思うと....』。
大粒の涙。継ぐべき言葉を失った」
高文声さんを碑の除幕式に招いたのは、
市民団体「大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会」。
敬意を表します。
※「北海道の歴史散歩」山川出版に掲載
中でも、戦時中の中国人・朝鮮人強制労働の実態には驚いた。
また、今朝の毎日新聞に、「強制連行で生き残り、60年ぶりに
来日した高文声さん」の話が載っていた。
どちらも紹介しておきます。
「戦時中の労働力不足を補うために、全国135事業所で
約3万9000人の中国人が重労働に就いた」
●室蘭市中国人殉難烈士慰霊碑
室蘭港湾使役に中国人1861人のうち564人死亡。
死亡率30.3%だが、他に大量の遺骨が放置されていることが
わかった。判明した遺骨だけで240名に上る。
●置戸町中国・中国人・朝鮮人殉難慰霊碑
北見地方では美幌・女満別・小清水の飛行場のほか、
鉱山で働かされた方々の慰霊碑である。
地元の方の証言が残っている。
「靴の代わりに南京袋やセメントの紙袋を足に巻き、
高野豆腐ほどの大きさのフスマで作ったマントウ2個の食事」、
「飢餓の1歩まえまでに食物が少なかったとのことである。
人間の衰弱したのはこれほどになるのかと驚くほかないほど
肉体が消耗し、まったく骨に皮がまとっている状態で、
大人であるのにじつに体重27kgとなったものを労働させた
もので、ほとんど30kg台であった」
中国人強制連行の記録「草の墓標」より※
では、中国人の方々ははどのようにして日本に連行されたきたの
だろうか。
高文声さんの話を毎日新聞から引用します。
「故郷の村で抗日軍の看護兵をしていた17才の時、旧日本軍に
捕まり、終戦の1年前に、大阪市内の造船所に連行された」
中国人の強制連行は、北海道でも1944年が多いことでわかる
ように、ほぼ一年間で約4万人が日本に連行されたのだろう。
この連行が計画的に行なわれたことは明かだ。
高文声さんの証言。
「待っていたのは、過酷な労働と飢え。長さ2~3mの鉄板を
9時間運び続け、日本人寮で布団の片付けなどの雑役も。
わずかなまんじゅうでは空腹は満たされず、海草を拾って
むさぼった。セメント袋を体に巻いて冬の寒さをしのいだ」
全国の事業所の待遇も似ていることがわかる。
毎日新聞の記事を最後に引用させていいただく。
「あれから60年。大阪港を望む公園に、大阪市内での
重労働後に死亡した中国人86人を追悼する碑ができた。
『日本の友人が努力してくれたことは感謝する。しかし、
愛する人に別れも告げられず、異郷の地でなくなった
同胞の無念を思うと....』。
大粒の涙。継ぐべき言葉を失った」
高文声さんを碑の除幕式に招いたのは、
市民団体「大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会」。
敬意を表します。
※「北海道の歴史散歩」山川出版に掲載
だれが何をしたか。国家とは何かを絶えず考えなくては
ならないと思います。
私の父は豪州の収容所。母は台湾からの引揚者です。
シベリアの過酷さに比べることはできませんが、
やはり死線を越えて帰国しています。
国家の拓殖政策に勇躍植民地にいった人々の苦労に、
国はないも報いていないと思います。
本来、日本は戦後の早い時期に、戦争というものを
徹底して追求しておくべきだったと考えます。
この検証をサボタージュしたために、恣意的に
都合のよい歴史を再構築しています。
メールありがとうございます。
いつも励みになります。