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岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

戦時中の中国人強制連行・労働の実態を知らなかった。

2005-11-03 11:25:50 | 戦争を語り継ぐ
9月に北海道に旅をして、私自身の知識のなさを痛感したが、
中でも、戦時中の中国人・朝鮮人強制労働の実態には驚いた。
また、今朝の毎日新聞に、「強制連行で生き残り、60年ぶりに
来日した高文声さん」の話が載っていた。

どちらも紹介しておきます。

「戦時中の労働力不足を補うために、全国135事業所で
約3万9000人の中国人が重労働に就いた」

●室蘭市中国人殉難烈士慰霊碑
室蘭港湾使役に中国人1861人のうち564人死亡。
死亡率30.3%だが、他に大量の遺骨が放置されていることが
わかった。判明した遺骨だけで240名に上る。

●置戸町中国・中国人・朝鮮人殉難慰霊碑
北見地方では美幌・女満別・小清水の飛行場のほか、
鉱山で働かされた方々の慰霊碑である。
地元の方の証言が残っている。

「靴の代わりに南京袋やセメントの紙袋を足に巻き、
高野豆腐ほどの大きさのフスマで作ったマントウ2個の食事」、
「飢餓の1歩まえまでに食物が少なかったとのことである。
人間の衰弱したのはこれほどになるのかと驚くほかないほど
肉体が消耗し、まったく骨に皮がまとっている状態で、
大人であるのにじつに体重27kgとなったものを労働させた
もので、ほとんど30kg台であった」
中国人強制連行の記録「草の墓標」より※

では、中国人の方々ははどのようにして日本に連行されたきたの
だろうか。
高文声さんの話を毎日新聞から引用します。

「故郷の村で抗日軍の看護兵をしていた17才の時、旧日本軍に
捕まり、終戦の1年前に、大阪市内の造船所に連行された」

中国人の強制連行は、北海道でも1944年が多いことでわかる
ように、ほぼ一年間で約4万人が日本に連行されたのだろう。
この連行が計画的に行なわれたことは明かだ。

高文声さんの証言。
「待っていたのは、過酷な労働と飢え。長さ2~3mの鉄板を
9時間運び続け、日本人寮で布団の片付けなどの雑役も。
わずかなまんじゅうでは空腹は満たされず、海草を拾って
むさぼった。セメント袋を体に巻いて冬の寒さをしのいだ」
全国の事業所の待遇も似ていることがわかる。

毎日新聞の記事を最後に引用させていいただく。

「あれから60年。大阪港を望む公園に、大阪市内での
重労働後に死亡した中国人86人を追悼する碑ができた。
『日本の友人が努力してくれたことは感謝する。しかし、
愛する人に別れも告げられず、異郷の地でなくなった
同胞の無念を思うと....』。
大粒の涙。継ぐべき言葉を失った」

高文声さんを碑の除幕式に招いたのは、
市民団体「大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会」。
敬意を表します。

※「北海道の歴史散歩」山川出版に掲載

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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強制連行 (キヨ)
2005-11-04 00:18:52
今回の記事を読んで シベリア抑留を思いました。この夏近くの会館で行われたシベリア抑留者の絵画展に立ち寄りました。私が5歳の時に死んだ父親がシベリアでどんな体験をしたのかを知りたかったためです。生きて帰ってきましたが、母親にもそこでのことは何も話さなかったそうです。
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知っておくべきこと (岩清水)
2005-11-04 08:42:52
私たちは知っておくべきことの多くを知りません。

だれが何をしたか。国家とは何かを絶えず考えなくては

ならないと思います。

私の父は豪州の収容所。母は台湾からの引揚者です。

シベリアの過酷さに比べることはできませんが、

やはり死線を越えて帰国しています。

国家の拓殖政策に勇躍植民地にいった人々の苦労に、

国はないも報いていないと思います。



本来、日本は戦後の早い時期に、戦争というものを

徹底して追求しておくべきだったと考えます。

この検証をサボタージュしたために、恣意的に

都合のよい歴史を再構築しています。

メールありがとうございます。

いつも励みになります。
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