社会の中で、生きていく手段を見つけると同時に、
院の財政のために子どもたちができることはなにか。
職を身につけながら、実際に稼ぐという、今の授産施設
でも困難なことに十次は挑戦する。
では、どのような仕事をつくっていったのか、
列記してみよう。
1890年(明治23) 活版部 米搗部(こめつき)
1891年(明治24) 機業部(機織) 理髪部 麥稈部
(麦藁帽子)▲米搗部廃止
1892年(明治25) マッチ製造部
1893年(明治26) 製莚部
1894年(明治27) 鍛治部 活版部に製本部を附設
大工部 ▲製莚部廃止
1895年(明治28) ▲鍛治部廃止
1896年(明治29) 商業部
最初の7年で、11事業を始めて3事業を廃止している。
これはかなり好成績だと思う。実際にどの程度、院の
経営にプラスになったかはわからないが、全院生が毎日、午後の
数時間を職業教育に費やすわけであるから、幾ばくかの収入に
なったことは確かである。
さて、1890年には、100名の孤児を養育していた院の建物や
職員はどうなっていたのだろうか。まずこの時期の規模を
おさえておけば、以後急激に拡大する岡山孤児院との比較の
ベースになるのではないか。
「職員:会計1名、保母2名、賄(まかない)方2名、教師3名。
施設:4棟の院舎(三友寺2棟、自施設2棟)。
3棟を、男子、女子、幼児に分けて住む。
その子どもたちを8組に分け、組長を決め、
組毎に年長者が年下の子どもの世話をした」※
収容人数は増えるが、財政が厳しく、職員も増やせない。
そこで子ども同士で助け合うということで乗り切ってきて
いるわけである。
「1889年(明治22)には、「岡山孤児院一同、飢餓に迫り、
心を合わせて神助を祈る、
たまたま米国少年会より寄付金31円が到着する」※
というような綱渡りのような状態が続いていたのである。
この米国の少年会は、自分達の寄付の行き先は決まっていた
ので、岡山孤児院のために特別の寄付を家族や知人に頼んだ
らしい。米国の人々の善意を忘れてはならない。
私たちは大切なことを学んでいないと思う。
それは明治期の日本に対する国際的援助である。
「日本人は偉い」ということを強調するがために海外からの
援助の評価を低くしているとさえ思ってしまう
そのような日々、1891年(明治24年)に前述した濃尾大震災が
起こり、大きく状況が変わったしまったのだ。
なお、現在の授産施設では、支援費、措置費がなければ、
施設の運営は不可能である。
当時は、このような補助金はない。公的扶助という考えは
まだなかった。ほとんどが、民間からの寄付なのである。
ただ、十次は日誌に、英国の情報として、公的扶助を知って
いたことを書いており、公的扶助によそよそしさを感じていた
ことがわかる。
※石井十次傅 石井記念
院の財政のために子どもたちができることはなにか。
職を身につけながら、実際に稼ぐという、今の授産施設
でも困難なことに十次は挑戦する。
では、どのような仕事をつくっていったのか、
列記してみよう。
1890年(明治23) 活版部 米搗部(こめつき)
1891年(明治24) 機業部(機織) 理髪部 麥稈部
(麦藁帽子)▲米搗部廃止
1892年(明治25) マッチ製造部
1893年(明治26) 製莚部
1894年(明治27) 鍛治部 活版部に製本部を附設
大工部 ▲製莚部廃止
1895年(明治28) ▲鍛治部廃止
1896年(明治29) 商業部
最初の7年で、11事業を始めて3事業を廃止している。
これはかなり好成績だと思う。実際にどの程度、院の
経営にプラスになったかはわからないが、全院生が毎日、午後の
数時間を職業教育に費やすわけであるから、幾ばくかの収入に
なったことは確かである。
さて、1890年には、100名の孤児を養育していた院の建物や
職員はどうなっていたのだろうか。まずこの時期の規模を
おさえておけば、以後急激に拡大する岡山孤児院との比較の
ベースになるのではないか。
「職員:会計1名、保母2名、賄(まかない)方2名、教師3名。
施設:4棟の院舎(三友寺2棟、自施設2棟)。
3棟を、男子、女子、幼児に分けて住む。
その子どもたちを8組に分け、組長を決め、
組毎に年長者が年下の子どもの世話をした」※
収容人数は増えるが、財政が厳しく、職員も増やせない。
そこで子ども同士で助け合うということで乗り切ってきて
いるわけである。
「1889年(明治22)には、「岡山孤児院一同、飢餓に迫り、
心を合わせて神助を祈る、
たまたま米国少年会より寄付金31円が到着する」※
というような綱渡りのような状態が続いていたのである。
この米国の少年会は、自分達の寄付の行き先は決まっていた
ので、岡山孤児院のために特別の寄付を家族や知人に頼んだ
らしい。米国の人々の善意を忘れてはならない。
私たちは大切なことを学んでいないと思う。
それは明治期の日本に対する国際的援助である。
「日本人は偉い」ということを強調するがために海外からの
援助の評価を低くしているとさえ思ってしまう
そのような日々、1891年(明治24年)に前述した濃尾大震災が
起こり、大きく状況が変わったしまったのだ。
なお、現在の授産施設では、支援費、措置費がなければ、
施設の運営は不可能である。
当時は、このような補助金はない。公的扶助という考えは
まだなかった。ほとんどが、民間からの寄付なのである。
ただ、十次は日誌に、英国の情報として、公的扶助を知って
いたことを書いており、公的扶助によそよそしさを感じていた
ことがわかる。
※石井十次傅 石井記念