goo blog サービス終了のお知らせ 

岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

【授産】への取り組み  石井十次 その26

2005-03-17 11:09:04 | 石井十次
社会の中で、生きていく手段を見つけると同時に、
院の財政のために子どもたちができることはなにか。
職を身につけながら、実際に稼ぐという、今の授産施設
でも困難なことに十次は挑戦する。

では、どのような仕事をつくっていったのか、
列記してみよう。
1890年(明治23) 活版部  米搗部(こめつき)
1891年(明治24) 機業部(機織) 理髪部 麥稈部
 (麦藁帽子)▲米搗部廃止
1892年(明治25) マッチ製造部    
1893年(明治26) 製莚部 
1894年(明治27) 鍛治部 活版部に製本部を附設 
           大工部 ▲製莚部廃止
1895年(明治28) ▲鍛治部廃止
1896年(明治29) 商業部

最初の7年で、11事業を始めて3事業を廃止している。
これはかなり好成績だと思う。実際にどの程度、院の
経営にプラスになったかはわからないが、全院生が毎日、午後の
数時間を職業教育に費やすわけであるから、幾ばくかの収入に
なったことは確かである。

さて、1890年には、100名の孤児を養育していた院の建物や
職員はどうなっていたのだろうか。まずこの時期の規模を
おさえておけば、以後急激に拡大する岡山孤児院との比較の
ベースになるのではないか。

「職員:会計1名、保母2名、賄(まかない)方2名、教師3名。
 施設:4棟の院舎(三友寺2棟、自施設2棟)。
    3棟を、男子、女子、幼児に分けて住む。
    その子どもたちを8組に分け、組長を決め、
    組毎に年長者が年下の子どもの世話をした」※
収容人数は増えるが、財政が厳しく、職員も増やせない。
そこで子ども同士で助け合うということで乗り切ってきて
いるわけである。

「1889年(明治22)には、「岡山孤児院一同、飢餓に迫り、
心を合わせて神助を祈る、
たまたま米国少年会より寄付金31円が到着する」※
というような綱渡りのような状態が続いていたのである。

この米国の少年会は、自分達の寄付の行き先は決まっていた
ので、岡山孤児院のために特別の寄付を家族や知人に頼んだ
らしい。米国の人々の善意を忘れてはならない。

私たちは大切なことを学んでいないと思う。
それは明治期の日本に対する国際的援助である。
「日本人は偉い」ということを強調するがために海外からの
援助の評価を低くしているとさえ思ってしまう

そのような日々、1891年(明治24年)に前述した濃尾大震災が
起こり、大きく状況が変わったしまったのだ。

なお、現在の授産施設では、支援費、措置費がなければ、
施設の運営は不可能である。
当時は、このような補助金はない。公的扶助という考えは
まだなかった。ほとんどが、民間からの寄付なのである。

ただ、十次は日誌に、英国の情報として、公的扶助を知って
いたことを書いており、公的扶助によそよそしさを感じていた
ことがわかる。

※石井十次傅 石井記念

最新の画像もっと見る