
昨日、ウォーキングで訪問した旭公民館は、とても公民館らしからぬ建物だった。
広大な敷地が塀に囲まれている。その上、エントランスには車よせがある。
聞くと、旅館だったという。
でも旅館というイメージではない。
帰宅後、インターネットで検索すると少しわかった。
ここは10年ほど前まで、国家公務員宿舎「広瀬寮」だった。
なるほど。
しかしそれだけでは、腑に落ちない。
そして広瀬寮以前は、旧師団長舎であったことがわかった。
ならば納得。
でも、岡山に第17師団があったのは、明治40年から大正14年の間。
軍縮の流れから廃止になっている。
そして再結成されたのは昭和13年であり15年戦争の最中である。
その再結成した師団は、中国と南方を転戦していて、師団長が岡山で
留守をしているはずがない。
どのように使われていたのだろう。
当時の軍隊の編成など、検索しましたがなかなか複雑です。
南方に転戦した岡山の連隊(師団ではない)の死亡率は極めて高いことがわかりました。
とにかく私の家の近くにかつては師団や連隊の本部や練兵場があったわけです。
少しずつ調べていきたい。
写真は、旭公民館の裏庭です。とても公民館的ではないですね。
豚汁をいただいています。
広大な敷地が塀に囲まれている。その上、エントランスには車よせがある。
聞くと、旅館だったという。
でも旅館というイメージではない。
帰宅後、インターネットで検索すると少しわかった。
ここは10年ほど前まで、国家公務員宿舎「広瀬寮」だった。
なるほど。
しかしそれだけでは、腑に落ちない。
そして広瀬寮以前は、旧師団長舎であったことがわかった。
ならば納得。
でも、岡山に第17師団があったのは、明治40年から大正14年の間。
軍縮の流れから廃止になっている。
そして再結成されたのは昭和13年であり15年戦争の最中である。
その再結成した師団は、中国と南方を転戦していて、師団長が岡山で
留守をしているはずがない。
どのように使われていたのだろう。
当時の軍隊の編成など、検索しましたがなかなか複雑です。
南方に転戦した岡山の連隊(師団ではない)の死亡率は極めて高いことがわかりました。
とにかく私の家の近くにかつては師団や連隊の本部や練兵場があったわけです。
少しずつ調べていきたい。
写真は、旭公民館の裏庭です。とても公民館的ではないですね。
豚汁をいただいています。