山本孝史議員の冥福を祈りたい。
彼は、人生の最後の最後まで、世の理不尽さと闘った。
彼は病気に苦しんでいる人や、障がい者や高齢者が少しでも幸せに
なってほしいと心から思った人だ。
僭越ではあるが、私が現実に出会っている「理不尽なこと」を
「介護保険2005年改正」の総括へ に書いている。
批判のための批判のつもりはない。
当事者の声が、現場で埋もれてしまっているのではないという危惧がある。
声が聞こえなければ、困難に遭遇している人々の生活は
見えてこないのではないか。
キーワード:医療と介護の狭間
今回は、リハビリにみる「福祉と医療の総合的、一体的な提供」の現実を
論点としたい。
この「福祉と医療の総合的、一体的な提供」は、介護保険制度の
目的でもある。
さて、今リハビリテーションの現場がどのようになっているか。
当事者の言葉を引用したい。
(私も担当利用者の方々から言われ続けていることだ)
「寡黙なる巨人」多田富雄著 127P
リハビリ中止は死の宣告
私は脳梗塞の後遺症で、重度の右半身麻痺に言語障害、嚥下障害などで
物も満足には食べられない。もう4年になるが、リハビリを続けたお陰で、
何とか左手だけでパソコンを打ち、人間らしい文筆生活を送っている。
ところがこの3月末(2006年)、突然医師から今回の診療報酬改定で、
医療保険の対象としては一部の疾患を除いて障害者のリハビリが
発症後180日を上限として、実施できなくなったと宣告された。
私は当然リハビリを受けることができなくなる。
私の場合は、もう急性期のように目立った回復は望めないが、
それ以上機能低下を起こせば、動けなくなってしまう。
昨年、別な病気で3週間ほどリハビリを休んだら、以前は50メートルほど
歩けたのに、立ち上がることすら難しくなった。
身体機能はリハビリをちょっとでも怠ると瞬く間に低下することを
思い知らされた。
これ以上低下すれば、寝たきり老人になるほかない。その先はお定まりの、
衰弱死である。私はリハビリを早期に再開したので、今でも少しずつ運
動機能は回復している。
ところが、今回の改定である。私と同様に180日を過ぎた慢性期、
維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。
それ以上機能が低下しないよう、不自由な身体に鞭打って苦しい訓練に
汗を流しているのだ。
そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、
火を見るより明らかである。
今回の改定は、
「障害が180日で回復しなかったら死ね」というのも同じである。
引用終わり:
※急性期は医療、慢性期は介護ということなら、180日で急性期を
終わった。後は介護に引き継がれるということになる。
介護認定をするのだが、要支援になることが多い。
リハビリの手段は、通所リハと訪問リハだが、要支援の場合は、
個別にリハビリを行うことが出来ない。理学療法士の数も少なく、
病院と比べようもない。訪問リハは週1回長くて40分程度である。
リハビリと言えるものではない。
介護保険サービスには、医療のリハビリに代わるようなサービスは
ない。
多田富雄先生は厚生労働省に闘いを挑む。237p
このページの文章を読むと怒りがこみ上げてくる。
われわれ現場の人間は、なぜ日々このような理不尽な官僚組織から、
細々としたことまで指示を受けて、業務にあたらなければならないのか。
最後の部分だけ引用させていただく。
今、厚生労働省の役人に負けてはいられない。
これも弱者の人権を護る戦いなのだ。
私は自分の中の「巨人」にこう語りかける。
今しばらくの辛抱だ。これまでの苦痛に比べたら、何ほどのことがあろう。
戦え。怒れ。のた打ち回れ。
「寡黙なら巨人」は声で答えることはできないが、
心に深くうなづくものがあった。
引用終わり
ここが核心と思っている。
「介護保険2005年改正」で、踏みにじられているのは、
基本的人権なのではないか。
人権を護る行動ができない専門職とはなんだろうか。
自問が続く。
彼は、人生の最後の最後まで、世の理不尽さと闘った。
彼は病気に苦しんでいる人や、障がい者や高齢者が少しでも幸せに
なってほしいと心から思った人だ。
僭越ではあるが、私が現実に出会っている「理不尽なこと」を
「介護保険2005年改正」の総括へ に書いている。
批判のための批判のつもりはない。
当事者の声が、現場で埋もれてしまっているのではないという危惧がある。
声が聞こえなければ、困難に遭遇している人々の生活は
見えてこないのではないか。
キーワード:医療と介護の狭間
今回は、リハビリにみる「福祉と医療の総合的、一体的な提供」の現実を
論点としたい。
この「福祉と医療の総合的、一体的な提供」は、介護保険制度の
目的でもある。
さて、今リハビリテーションの現場がどのようになっているか。
当事者の言葉を引用したい。
(私も担当利用者の方々から言われ続けていることだ)
「寡黙なる巨人」多田富雄著 127P
リハビリ中止は死の宣告
私は脳梗塞の後遺症で、重度の右半身麻痺に言語障害、嚥下障害などで
物も満足には食べられない。もう4年になるが、リハビリを続けたお陰で、
何とか左手だけでパソコンを打ち、人間らしい文筆生活を送っている。
ところがこの3月末(2006年)、突然医師から今回の診療報酬改定で、
医療保険の対象としては一部の疾患を除いて障害者のリハビリが
発症後180日を上限として、実施できなくなったと宣告された。
私は当然リハビリを受けることができなくなる。
私の場合は、もう急性期のように目立った回復は望めないが、
それ以上機能低下を起こせば、動けなくなってしまう。
昨年、別な病気で3週間ほどリハビリを休んだら、以前は50メートルほど
歩けたのに、立ち上がることすら難しくなった。
身体機能はリハビリをちょっとでも怠ると瞬く間に低下することを
思い知らされた。
これ以上低下すれば、寝たきり老人になるほかない。その先はお定まりの、
衰弱死である。私はリハビリを早期に再開したので、今でも少しずつ運
動機能は回復している。
ところが、今回の改定である。私と同様に180日を過ぎた慢性期、
維持期の患者でもリハビリに精を出している患者は少なくない。
それ以上機能が低下しないよう、不自由な身体に鞭打って苦しい訓練に
汗を流しているのだ。
そういう人がリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは、
火を見るより明らかである。
今回の改定は、
「障害が180日で回復しなかったら死ね」というのも同じである。
引用終わり:
※急性期は医療、慢性期は介護ということなら、180日で急性期を
終わった。後は介護に引き継がれるということになる。
介護認定をするのだが、要支援になることが多い。
リハビリの手段は、通所リハと訪問リハだが、要支援の場合は、
個別にリハビリを行うことが出来ない。理学療法士の数も少なく、
病院と比べようもない。訪問リハは週1回長くて40分程度である。
リハビリと言えるものではない。
介護保険サービスには、医療のリハビリに代わるようなサービスは
ない。
多田富雄先生は厚生労働省に闘いを挑む。237p
このページの文章を読むと怒りがこみ上げてくる。
われわれ現場の人間は、なぜ日々このような理不尽な官僚組織から、
細々としたことまで指示を受けて、業務にあたらなければならないのか。
最後の部分だけ引用させていただく。
今、厚生労働省の役人に負けてはいられない。
これも弱者の人権を護る戦いなのだ。
私は自分の中の「巨人」にこう語りかける。
今しばらくの辛抱だ。これまでの苦痛に比べたら、何ほどのことがあろう。
戦え。怒れ。のた打ち回れ。
「寡黙なら巨人」は声で答えることはできないが、
心に深くうなづくものがあった。
引用終わり
ここが核心と思っている。
「介護保険2005年改正」で、踏みにじられているのは、
基本的人権なのではないか。
人権を護る行動ができない専門職とはなんだろうか。
自問が続く。
院生には、なるべくナマのまま読むように言っています。
(6)~(12)を読んで
キーワード風にまとめてみました。
・日本社会では、人権の視点が欠けている。
・高齢者の貧困問題を直視せよ。
・介護従事者の低賃金の構造を打破せよ。
・介護保険法の創設の理念は「介護の社会化」では?
・・・いまや、家族への押し付けに戻っている。
→「地域」への甘い期待にも無理が。
・制度の改正で、結局は、現場の職員も犠牲に。
(実際に、頭を下げて謝る係りは現場の人に・・)
・これだけの重い事実があるのに、世の中には十分知られていない。
→専門職のソーシャルアクション
+良心的な政治家の活動
+客観的な分析(研究者の仕事でもある)
・医療との接点(多田富雄先生の指摘)が弱い。
要するに、
現実に社会で起きている問題を直視せず、その場しのぎになっているということがわかります。
2005年改正から2年です。この2年間の評価を
もとに次の3年の計画が練られるわけですが、すでに
福祉用具の給付制限が囁かれているようです。
厚生労働省の手前味噌な「評価」に対して、
さまざまな立場からの「2005改正」評価の
声が上がるべきだと思います。