名古屋・名駅街暮らし

足の向くまま気の向くままに、季節の移ろいや暮らしのあれこれを綴ります。

どこでどんな死に方を?

2014年12月22日 | 雑感


昨今の日常会話で、「無駄な延命はして欲しくない」
「病院でなく家で死にたい」などはよく聞くし、
尊厳死に関する情報も多く飛び交っている。

終末期医療に関しても、管に繋がれた姿で命を
終えたくないと思う人も多い。



病人も家族も藁にもすがる思いで、苦痛を和らげ、
命を伸ばすための処置を求める。



兄の場合も、病は連続性を持って進んで行き、
その都度医師は治療法を提案し、承諾を得て進めていく。

先の望みが薄れていく中で、過酷な検査や処置は
避けたいと思うが、中断することは死につながる。

日夜看病をしてきた兄嫁の、生への思いは強く、
断片的に病状を知り、漠然と尊厳死を考える者とは、
大きな相違があった。



生から死への過程で、治療法を医師から問われれば、
死を早める選択はできないし、医師も一旦装着した
生命維持装置を外すことはしない。

その結果、回復の見込みの少ない体に、胃ろうや
気管に呼吸器が取り付けられ、意思の疎通が
出来ないままに息を引き取った。



尊厳死の定義が定まらない中で、法制化の動きも出てきた。
かつて、麻生さんが「さっさと死ねる社会・・・」で
物議を醸したが、一理ある言いぐさも、国の医療費削減策が
見え隠れするようでは、理解は得られない。

昔は、大部分が自宅で看取られていたが、今は
80%が病院で亡くなっている。
医療施設の充実もあるが、介護できる家族が
いないとか、仕事があって介護出来ない家庭事情が
最大の理由のようだ。

その一方で、かつて経験したことのないような
「多死時代」が、到来すると言われている。

介護型の病院が減らされ、大病院は緊急性の高い
患者を優先し、慢性的な高齢者の受け入れが難しくなる。

病院でも自宅でも、死ねない人たちが増えていくと
言うが、尊厳のある死を選ぶ難しさを痛感しながら、
寒い日々を過ごした。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする