つい先日、同僚の若い人から、生徒が携帯電話をやっていて、教科書も持ってきていないので、退場させたいと思う旨の相談を受けました。また、じっくり論ずるつもりでいますが、僕にはこういう気持ちがよくわからないのです。というか、わかるが、ご時世を考えたらあまりに時代錯誤じゃないか、と思えてならなかったのです。
僕は、いったん、そういう発想には興味がないが、やりたかったらしたら、というようなことを口走り、あとで少々無責任だったと発言を訂正しました。僕は、そのとき、それどころじゃなかったんですね。自分の授業のことで。
僕は、いまでも、転職を本気で考えています。そのための努力を重ねています。それは、途方もないことだということを知っての上で。だから、こういう発言には興味がないんです。正直、勝手にすれば。
現在、雇用を守られている正規の教員は、繰り返しになりますが、教員採用試験で守られています。小学校の教員採用試験がとうとう3倍を割ろうとしているといいます。この波はおそらく、高校にもやがて来るとおもいますね。教員評価は実はそのはじまりです。
が、いま、正規雇用の教員は、その未熟練労働の意味を白日のもとにさらすことを教員採用試験という防波堤の存在でせずに済んでいます。しかし、もし、共済年金が厚生年金にくっついて、終身雇用を終了させられ、免許更新制が、契約の単位になったとき、そして、派遣労働と競争関係にますます立ったとき、そして、財政の悪化から、ますます定期昇給が低位で止めざるを得なくなったとき、一気に小学校の先生のなり手不足の現実が高校にもくることになるでしょうね。
高校の先生を見ていて、まず彼らのひどい勉強不足は目を覆いがたい。加えて、まったく生徒に興味を持っていない。また、社会にまったく興味がないんです。それは、自分たちの都合のいい批判のためには、社会の事情を使いますよ。
社会保険庁だけが、サボタージュをしているわけではありません。しかし、自分たちのサボタージュには目はゆかないのです。
学校の先生の発する情報で、何か意味があるものってあるの?
単位制高校は90単位まで生徒一人は講座をとれるのです。しかし、みんな74単位の下限にくると、ぴたりと取らなくなります。数学などはほとんど需要の対象ではない。私はこう豪語します。学校の先生の授業程度だったら、ぽっと1年現場で勉強すれば大体の普通の人なら10年選手との区別がつかないくらいにできる。
未熟練。無意味。
この二つで大体が片づきます。
若い人はこう考えよう。
君たちが仕事を得るためには学校を需要あふれる場所にするのだ!君の前の携帯電話をしている生徒が、思わず手をおき、耳を傾けたいと思う授業をやれ!
「来年も先生の授業をとりたい!」
はい、これで2単位分の生徒の需要を確保!こう考えよ。
この競争を学校に挿入するのだ。そうすれば、意味のないジジイ、ババアが消える!そして、二人分の若い人の需要が増える!
大メシぐらいだわ!生徒の需要を減退させるわ!
こういう人間が学校で生きていけない職場にするのだ。
若い人が、一方で低利で、みずからのスキルを身につける制度を制度化する必要がある。
こうしたことが現在問われていることなのです。
生徒の需要が増加するということが教員評価の原点になければいけないんです。
高校公民空間はそういう労働組合機能をもっている団体です。
若い人、入りませんか?
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