高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

学校の先生はどうして「いらっしゃいませ」といわないのか?

2005-09-18 18:32:19 | 経済分野の授業

以下の問題は今回の『政治経済』の試験問題です。よろしかったら挑戦してみてください。

【問題】授業では「先生はどうして「いらっしゃいませ」と言わないのか?」という問いを考えた。その理由として、

「先生は公務員であり、その給与体系が年功序列だから」

という仮説を立ててみた。この仮説が正しいとしたとき、先生はどのような理由で「いらっしゃいませといわない」と説明できるか。以下の二つの条件を満たして文章として記述しなさい。(10点)

条件1 公企業と私企業の違いを明らかにすること

条件2 そのさいに、以下の4つの用語を必ず使い、使ったところに下線を引くこと 

 市場   税金   平等分配   顧客

【解答例】(以下のものは全部生徒の答えたものです!)

① 先生は公務員であり、税金によってお給料が平等に分配される為私企業と違い市場で顧客を獲得する必要もなく年をとり、能力が下がったとしても税金という装置があれば、努力する必要もなく、客を集める必要もない為「いらっしゃいませ」とはいわないのだ。

②公企業の先生の給料は税金と授業料で毎月平等分配される。そのため、私企業のように市場があって、売上があったり、営業能力、仕事のできで、給料が決まるわけではない。先生たちも、生徒を顧客とし生徒の数と授業評価で給料が決まればいらっしゃいませというはずです。

③学校の先生は公務員で、公企業にあたる。そのため、国民から半強制的に集められる税金から平等分配され、どんな良い授業をしても、どんなに悪い授業をしても給料は同じである。それにくらべ、私企業は能力主義のところが多く、市場に出回り、顧客がつかないと売上がなく、給料も少なくなる。そんな理由から、先生は「いらっしゃいませ」といわない。

【解説】
 この問題のタイトルは、そっくり授業のタイトルです。枕として「なぜ体罰が犯罪にならないのか?」という授業を行いました。実は、このタイトルの授業の導入として、生徒に「接客ランキング」と称して、以下のような授業を行いました。

「みなさんが接客態度としてよいと評価するBest5の教員の名前を書いてください、1位=5点、2位=4点・・・とし、集計して、背面黒板に掲示しましょう」
 生徒は思い思いに5人の教員の名前を書きました。それを授業中に集計し、書き出しました。
「このなかに名前が一切出てこない教員がいますねそれって何なんでしょうか?」
では、こんどは「Worst5」でやりますか?そして張り出したとしましょう。いや「体罰ランキングWorst5!」「セクハラランキングWorst5!」

 こうしてこの「学校の先生はどうして「いらっしゃいませ」といわないのか?」と題する授業を行ったのでした。もちろん、この授業は「経済分野」の学習として行われたのです。市場原理がこの問題にどのような解答を与えるのか、それを学習したにすぎません。私は、市場原理で何でも片付くのか、というアホなパブロフの犬的反論を恐れます。必要十分条件ということばがありますが、必要条件ではあっても十分条件かという保証はもちろんありません。生徒の【解答例】は学習した事例のきわめて典型的な適用例として掲載しました。もちろん、市場原理ですべて解決がつくわけもなく、また市場原理は新たな問題を惹起するなどと言うこともいうまでもありません。
 私は、近代的な人権をまったく否定する公務員としての教員の前近代性の消し方をここで提示しました。『政治経済』の教材よろしく、情報の公開と市場原理による選択の自由、これを一つの形式として提示してみたことになります。かように、私たち学校は『政治経済』を前近代から近代へという段階でとらえるという必要性に往々問われることになります。それは、教科書が想定しているレベルではありません。
 さて、学校の不祥事、学校の前近代的な権力の乱用、という問題にたいしてどのように私たちは歯止めをかけるのか、ここからは一般的な問題として考えてみたいと思います。


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20 コメント

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「先生」とよばれる「身分」 (ハラナ・タカマサ)
2005-09-18 21:20:23
「先生」とよばれる「身分」は、もちろん、「学校の先生」が典型ですけど、「お医者さん」「臨床心理士先生」「弁護士さん」「会計士さん」「税理士さん」「代議士先生」「棋士先生」「作家先生」「教祖さま」など、多士済々です(笑)。

 これら「先生方」の共通点は、決して公務員とか、非市場性といったものではありません。高度の選抜原理によってかちえた、専門知識のもちぬしで、おもには「こまった状況の打開者」などとして、位置づけられているものです。「棋士先生」「作家先生」など、特殊な「先生」以外は、基本的に、トラブル解消の「すけっと」であり、ひとびとの不幸に 生業の根拠をおいています(笑)。でもって、基本的に、「アタマをさげず、むしろ顧客が謝金をもって、アタマをさげる。ときには、正規料金以外の、お布施まで、もちよります。「顧客」が、よわりはてているからです。警察に、ねじこんで、拘束/反則金などをとりけしてくれる「代議士先生」なんてもの、同類です(笑)。わたくしからしますと、三文時代劇にでてくる「用心棒の先生」と、同質です。

 もちろん、学校空間的な「先生」でも、市場原理バリバリの集団がいます。小中学生をおしえる塾講師であり、高校生/浪人生をおしえる予備校講師などの「先生」です。スポーツ選手のように、「現役」時代がみじかいので、高額年俸がほしいところですが、そんなものにありつけるのは、Jリーガーなみに、くるしい世界です(笑)。
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言わないんじゃなくて・・・ (匿名)
2005-09-18 22:37:11
 またまたコメントさせていただきます。私が考えるに「いらっしゃませと言えない」んじゃなくて「言えない」んじゃないですかね。それは学校という場所が「言えない空間」なのかもしれません。
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間違えました・・・ (匿名)
2005-09-18 22:38:17
「いらっしゃいませと言わない」んじゃなくて「言えない」の間違えです。
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どういうことかしら? (木村正司)
2005-09-20 22:46:05
匿名さんへ

「言えない」と言う意味をもう少しお話いただけませんか。
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お答えします。 (匿名)
2005-09-21 09:37:04
 つまり「言わない」というのは、言う意志があるけどあえて言わないということ。僕の言う「言えない」は言う意志すらないことです。学校の先生は後者であると私は言いたいんです。皮肉を込めて言いましたが、学校そのものが「言えない」空間なんじゃないでしょうか。つまり生徒が入学して当たり前。生徒が入らなくても給与には響かず毎年昇給や賞与が約束されている。こんな温室栽培の職場なら、「いらっしゃいませ」という意志すら起きないと思いますよ。ほんの「わ」と「え」の違いですが私はこんな解釈の仕方をしたのです。こんなんでいかがでしょうか?
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公共性という問題 (木村正司)
2005-09-24 20:47:08
匿名さん、どうもありがとうございます。

まず、上の私のカキコのほうですが、みなさんのカキコのあとそれを読んで、【解説】を追加しました。ま、これが私が行った授業の趣旨です。このテーマをどのような文脈で投げたか、ということを付け加えておきました。

さて、では、こういう問をみなさんはどうお考えになるでしょうか「はたして、教員は「いらっしゃいませ」という必要があるのか?いえ、教員は「いらっしゃいませ」というコンセプトでその活動がくくりきれるのか?」

それを公教育の必要性というように考えてもいいでしょう。なぜ、「いらっしゃいませ」などという人間関係にしなければいけないのか?公教育、公共空間は、「いらっしゃいませ」の世界ができないことをやる場所ではないのか?

これと、私が解説で述べた次元の問題の解決とが、どのように同居するのか、ここです。

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生活者主権 (木村正司)
2005-09-24 23:23:43
ハラナさんの書き込みおよびTBにかんしてコメントします。私はハラナさんほどに詳細に「いらっしゃいませ」を考えていませんでした。あるいは、「いらっしゃいませ」をハラナさんのくくりでとらえてはいませんでした。学校という世界は生活者主権でなりたっていない、カネはらって学校嫌いになり、それでも授業料をはらいつづけ、なお、学校嫌いになり、あげくに「出て行け」だの、「こんなのもわからねえのか」という対応をされる、少なくとも等価交換になっていない空間なのだ、ということを私は書いています。いいんですよ、「いらっしゃいませ」といわなくても、それでも対価を満足して受け取れれば、それは立派な「いらっしゃいませ」です。需要と供給という世界がない、ということが主題なのです。もう少し言うなら、需要と供給という出会いが自覚できない世界があるのだ、ということが私の論題です。あの立川談志でさえ、深々とお辞儀をし「いっぱいのおはこび、ありがたく御礼申し上げます」といい、最後には深々とお辞儀をして消えていきます。何より、客というものを意識し、客の求めのために死ぬほどの努力をしているわけです。そこにあった「いらっしゃいませ」は絶対にあるのです。そのなかでマルクスが商品について書いているように、どこからか売り手市場になり、どこからか買い手市場になる、しかし、いずれにせよ、客という存在が存在する世界としない世界があるわけです。効用を一切考えなくてもよい世界が。

ところがです、ハラナさんが、再三にわたって強調されるようにいったん市場が入れば、使い捨てという地獄が現在化するわけです。ハラナさんがお書きになられているJリーガーばりの一部の成功者と酷使されるだけの層への分解。私はここはいま論じていません。現実は同時進行でしょうが、論理としてわけているわけです。

ただ高校の現場にいて明らかにこの人たちの提供する教育に明日はないと、断言したくなっちゃうわけです。私は子供がいませんが、子供がいたら、とてもじゃないが、この人たちに教育されたくない、とくに自分たちに不快感を与えるデキの悪い生徒に対する対応のひどさはゾッとします。

小泉改革がウケましたね、実は民主党の支持基盤が私たちの労組です。みえちゃったんだとおもいますよ、無党派たちに。こいつらも同じだって。労組も教育委員会という官僚もしょせん、天下りだの、既得権だの、という抵抗勢力だ、それはすぐにわかりますよ。そうなったときに、ええい民営化しろ、といわれたときに、ハラナさんがご指摘する事態になるだろう。

私はおそらくハラナさんがくくられるくくりの使い捨てに自分がなるだろうと観念しています。ま、だから合理的な社民党になることをきたいしているわけです、社民党がね。しかし、絶対に、私が該当者にならなくても、広汎な教養を売り物にした教員、売り手になりうる教員というものがこの消費社会でははっせいせざるをえないのではないか、とそこは見ているのです。というより、そこの展望を作ってやると思っているわけです。



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熟練工組合の独立 (木村正司)
2005-09-25 09:37:06
ハラナさんの射程は広く、深いので、一回のコメントですぐ答えはでません。私の現実で生きることで解答がなしうる、と思っています。一応、レスを私のすぐ上のコメントでしましたが、もう少し付け加えます(このコメントはハラナさんの貼られたTB本文コメント欄にも書き込みさせていただきました)。

ハラナさんの本文の結論部「プロダクションとか球団/協会と同様、理事会とか教育委員会とかが、「巨悪」」はズバリ私の現場での皮膚感覚です。教育委員会という無責任団体の無責任をどう解体させつつ、責任を問わせるのか、この問の前に私は現在沈黙です。

市場化による両極分解の問題もじつは私には何の対抗策もないのです。おっしゃるとおりなのです。私はただ、前近代的な人間関係を溶解させる手段として近代化の過程を市場や情報公開という形で問い、それいがいは思いつけないわけです。それはもちろん、論理的解答でしかありません。

私はしかし、ハラナさんの悲観をみながらも、それが私でなくても、きっと熟練工組合にそうとうするものが熟練の重視、それも生活者主権、消費者主権重視の、多品種少量生産という消費社会的形式を生むのだ、と思っているのです。私は労働組合の歴史をみて、未熟錬工組合はほとんどその意味を歴史上のこせていないとみています。私はあるいみ、予備校のカリスマといわれる連中がハラナさんがいうような意味での使い捨てという環境を変えられないのであるならば、それは隷属民とみます。私は落語や囲碁将棋、プロ野球という世界を現在の熟練工とみています。彼らはやはり最後に〈移動しうる〉という〈独立〉への運動をし、また自分たちのチームをつくり、文化の伝承と熟練の保持を懸命に探るのです。そして、隷属民は絶対独立しようとはしない、そして隷属民あがりが下手に管理的な立場に立つと隷属状態を再生産する・・・ええい、てめえら隷属がお似合いよ!俺はいやだというヤツら俺と連帯せよ!(古いなあ)
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匿名さんへ (木村正司)
2005-09-25 09:46:19
匿名さんがもしおよみになられたなら、木村として質問したいことがあります。ハラナさんのTBにはハラナさんの一貫した持論が展開されています。それは、私には重すぎて基本は上で書いた「強がり」(笑)を書くに止まっているのですが、――匿名さんも別の箇所で例の中学教師の方にお答えになっていたように――塾だってこき使われるだけ、客をえらぶなどというレベルでは到底ない、とおっしゃられていました。市場化はますます働く側が弱い立場にたち、雇用される側に依存せざるを得ない、という物語のすさまじさに明るい展望はないのでしょうか?私は市場化が避けられないというレベルで、つまりいいの悪いのいっていられねえべ、というレベルでこの問題を考えています。しょせん、安くていいものをほしがるのです。消費する側は。そのときに、消費する側に立つと、自分が生産する側であることを人はどうも忘れるのです。で、自分の首を自分で締める。その循環にハラナさんは出口なし、とみています。私もじつは同感です。
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お答えします。 (匿名)
2005-09-25 19:56:45
 木村様、ご質問有難うございます。質問の内容は「市場化はますます働く側が弱い立場にたち、雇用される側に依存せざるを得ない、という物語のすさまじさに明るい展望はないのでしょうか?」ということでよろしいでしょうか?そう受け止めてお答えいたします。

 われわれサービス業は消費者がいて成立しています。また雇用者がいて成立しています。消費者と雇用者の板ばさみになっているのが我々従業員になるわけです。私は、このサービス業は明るい展望の兆しがないと考えます。つまりその状況が嫌なら自分で企業を起こすことが最善の策と考えます。しかしながら意外とこの板ばさみの状況も中々も刺激的で私は好きなのですがね。こんなとこですが、もし質問の論点がずれているならばご指摘ください。どんな質問でもお答えさせていただきます。
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板ばさみの状況 (木村正司)
2005-09-26 23:46:27
 もう少し、匿名さんがおっしゃる「板ばさみの状況」の「刺激的」側面をお教え願えますか?

 私は「学校の呪術」というカテゴリイで連載しましたが、学校はきわめて未熟練な従順という労働能力に主力を依存しています。私はこれで市場が入れば、すさまじいことになるとみています。本文でもあらためて書くつもりですが、学校のヤマダ電機、さくらやが出現する。それこそ、明るい展望は何ひとつ持つことができないだろう。塾や予備校による参入は学校の単位がもう少し規模として大きくなれば促進されるだろう。私は一ニの予備校を取材しただけですが、ヤバイと思ったのです。ここでも未熟練と呼ぶべき若年労働の従順さを食い物にしていると。

 しかし、本当に働く側が豊かになっていく教育活動はありえないのか。消費社会の多様さが、そうした対応物としての労働の多品種を求め、すこしでも働く側が優位に立つ展望はないのか、ハラナ氏の分析はほぼ私のものでもあるのですが、それではまったく手詰まりなんですね。しかし、善悪の彼岸、まったなし、この現実をどうするか、民間の方の明るい展望をきけないのか、とおもったのです。
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うーん、やっぱり (ハラナ・タカマサ)
2005-09-27 07:22:18
大学で専門をおえる先生や割烹料理屋をわたりあるく板さんみたいに、「熟練工」化して自衛策はありませんかね?
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お答えいたします。 (匿名)
2005-09-28 20:03:09
 木村さんのご質問「もう少し、匿名さんがおっしゃる「板ばさみの状況」の「刺激的」側面をお教え願えますか?」にお答えいたします。

 板ばさみってことは、まだ誰かに気にかけてもらえてる状況でクビの危険性が極めて薄いのです。クビ間近の人間は雇用者や消費者にも相手にされず自然と自ら依願退職されていく方が多いです。

 最後に働く側が豊かになっていく教育活動はありえないのかという発言がございましたが、私は今の教育制度では難しいのではないのかと思います。民間の明るい希望をお聞きしたいとのこともありましたが、私の意見を言わせてもらえば公教育のほうの明るい希望すらお聞きしたいくらいなのです。

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匿名さんの提案の深読み (木村正司)
2005-10-02 19:56:28
ポストモダン的な言い方ですが、こうはいえませんか?匿名さんが中学校の先生の書き込みに少しつっこみをいれられましたよねえ。あの続き、私もやりたいのですが、少し躊躇しているわけです、おっかなくて(笑)。で、じつは、匿名さんがお書きになられたように、私たち公務員は市場にさらされることはないわけです。私はその市場のない世界の腐敗にまいってきたんです。こりゃ、いかんと。でも、市場のない人間に市場を考えろというのは無理なんです。しかし、人間の天邪鬼ですけど、市場がないからこそ、市場というもののある種の価値を〈価値〉としてもつわけです。で、ところが、市場にさらされている方たちは、市場の中にいるわけです。だから、〈公共性〉がみえるということはないのか、と思うのです。私はハーバーマスというドイツの社会学者の『公共性の構造転換』という本をいま読み返しています。ハーバーマスは〈公共性の起源〉を書いているわけです。で、それは徹底して個人主義であることを背景としていうわけです。そのとき、〈公共性〉がみえる、と。いっとき、銀行が国有化し、郵便局という公共的な金融機関が民営化という皮肉が皮肉として金子勝などにいわれていました。

私のこの授業はですね、生徒にとてもウケがよかったのです。テストのデキも大変よかった。これが、なんというか、皮肉なのです。学校で、いま民営化を議論すると、生徒がウケる、こういう皮肉があるわけです。サルトルは人間の意識のこうした天邪鬼をえがくことで有名ですが、サルトルばりにいうと、公立学校という公共空間でいま民営化の議論をすると、夢が語れそうなんです。しかし、では、競争原理はどうか、生徒にここを経済の問題として夢のあるものとして問えるか、答えは「No」です。それは不平等の問題のあまりの重さなのです。
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ハラナさんへ (木村正司)
2005-10-02 20:08:01
うーん?お書きになられたことがイマイチ伝わらないのですが。ところで、どうもハラナさんと私で職人というコンセプトが微妙なところでずれているようにずっと思えているのです。それをいつかすり合わせる意味で本文で書きたいと思っています。それはいいかえれば中岡哲郎=『資本論・第1巻』のマルクスを現代にいかに読み込むか、ということで、ハラナさんのご意見を改めてうかがいたいということなのですが・・・
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つっこみをいれた理由 (匿名)
2005-10-03 21:02:52
 私が中学教師につっこみを入れた理由、それは塾は生徒を選べるからという言葉にあります。それなりの裏づけがあっての発言ならともかく、塾の教師が金儲けできる仕事だからいいじゃないかっていう考えには納得できなかったからです。これは感情的になっているわけではなく、その意見がはたして正しいものなのかを立証できる根拠が無ければ、塾業界ならびに塾講師の対しての冒涜にすぎないと考えたための発言です。(冒涜というといいすぎなのかもしれませんが・・・)
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おそくなりましたが (ハラナ・タカマサ)
2005-10-15 20:28:27
■先日のかきこみは、ひどすぎますので、訂正いたします。

「大学で専門をおしえる先生や割烹料理屋をわたりあるく板さんみたいに、「熟練工」化していくしか自衛策はありませんかね?」ですね。すみません。



■で、後日、冷静にふりかえっての感想ですが、大学の先生は、一部のひとだけが、市場性をもっていますよね。クビになろうが、自分でやめようが、かならず ひろってもらえると。■しかし、それは例外的少数です。一流企業とよばれるところの管理職や、中学高校の先生の大半が、再就職するとなったら、市場価値が激減するというか、ほとんど「熟練」が無効化するように、大学の先生方の専門も、悲惨な状況です(笑)。■それからすると、「板さん」などの、包丁一本の世界とかは、さすがに「市場性」があります。マルクスや中岡哲朗さんのいう「熟練工の解体」のあと、「熟練工」的存在は、料理人あたりかなと。

■カルチャーセンターなどでも、歴然としていますが、実学や資格講座以外では、語学・趣味などごく一部以外、受講生がほとんどあつまりません。だから、心理学とか「源氏をよむ」とか「漢詩をよむ」、「古文書」講座、ヨーロッパ史、とか、例外的な分野をのぞけば、大学の教養科目的なものは、ほとんど市場性をもたないのです。■しかし、このことは、中学高校の先生方の教科にもあてはまるでしょう。例外的なカリスマ教師以外、市場になげだされて、入試対策以外の科目を維持できる先生は、まずいないのでは? ■もちろん、そのことは、学習塾や予備校の人気教師だってそうです。ちょっと人気がある程度の講師では、たべていけるだけの「お客」はあつめられないでしょう。■ドイツの私講師が、おそらく、それなりの資産をうけついだ高等遊民だっただろうことと、本質的構造はかわっていないとおもいます。■「市場」化可能な、公教育・大学の科目なんて、ごくわずかだと(笑)。
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つけたし (ハラナ・タカマサ)
2005-10-15 20:37:18
■ついでにいえば、予備校のカリスマ教師だって、入試って制度=ゲタはずされて、受講生が大入り満員って、ありえるんでしょうかね? イジワルないいかたをすれば、入試突破っていう、目標達成以外には不毛で消耗することばかりが基本の空間で、大学っぽい教養を、たのしげにかたってくれる人物が、オアシスとして人気をもっているのでは? ■予備校の人気講師ってのは、名人芸としての名トレーナー系と、脱線系の先生と、その融合系と、ほぼ3類型にわけられるんでは(笑)? ■でもって、みんな、入試という制度化の わく内で たべていると。
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需要不足と業態転換 (木村正司)
2005-10-16 01:34:31
岩井克人と吉川洋という二人の経済学者をずっとこのところ読んできています。彼らに共通の認識は、日本経済はその業態転換に失敗しているということです。はたして、教育産業は一度でも業態転換をしたのか、というと僕はしていないと見ています。僕はハラナさんの認識に全面的に賛同した上で、それが予備校であれ、家に所属すればHappyという(石原慎太郎先生お得意の言葉でいえば)儒教的「科挙」という形式を一歩も出てこなかったとみています。大学院に40歳すぎて所属し、社会人の御仁が多くいたので(早大の社会科学部ですから)、口癖のように私はききました。「意味あんの?」。みんな口を濁すんです。僕はそういうものは、この需要不足の社会で、徐々に業態転換を迫られるとみているのです。まだ、それははじまってません。たとえば、金沢工業大学とかという大学がいつだったか、「東京12CH」でドキュメンタリイしていましたが、もう、会社が大学へとはいってきてしまってるんです。会社で実践的に成功している人間が会社のスキルに併せて授業をし、その仕込んだ大学生の能力をバス貸切で売りにいくのです。短大がばたばたつぶれているというじゃないですか。こうして、科挙式の教養がつぶれていくはずです。何せ、供給がおおすぎるのだから。僕は大学院にいて、大学院のオーバードクターの連中に、おめえたち、食えるつもりかとさんざんいいました。くえるわけがねえじゃねえか。と。だめでしたね。ほとんど売るというものではない。大学の教授も無関心でしたね、そんなことに。その限りにおいては、客なんぞあつめられるわけがない。規制だけでくっているのだから。いっけん予備校や塾は、自立的に食っているように見えるけど、じつは、教育産業全体が規制であり、1940年体制そのままであることにさらに寄生して食っているに過ぎないとみています。意味もない、ただ大学という家に所属するために課される書だの、詩を読むだのといった能力と大差のない、ウェーバーの指摘のように行政能力とも、財政能力とも関係のない、趣味なんだと、オタクの趣味ですよ。そんなん、誰も「買い」ませんよ。しかし、このグローバル化は、日本経済の家制度をある程度壊すとみています。そうしたときに、今のような、1940年体制下の教育の業態がそのままであるのか?吉本興業大学付属高校、QBハウス付属高校、あの岡野雅行さんの町工場付属塾が・・・。僕は例の青色発光ダイオード―の中村修二がいってましたが、大学からのカネはほとんどない、と、大学の教師は他からの誘いがあるか、民間からの技術に対する買いがなければ、助教授をはじめとした自分の研究室の経営ができない、ちょっとした中小企業のおやじとおなじだ、と。この形式がはいらざるをえなくなるのではないか。僕は落語をみてきています。食うのはホント大変です。しかし、若い人間が、なんとか、地方で食おうとしている。それは無名です。立川談志はそれをやはり支援するんです。その立川談志はやはり売れることにすべてをみます。僕はハラナさんの認識に賛同しつつも、このレベルの分業の網の目が自生的に発生するのか、見守りたいと思っています。地方はどんどん需要不足の、それも、ほしくもないものばかりの供給という再生産をくりかえしていくはずです。その先が戦争なのか、それとも、戦後内田義彦や大塚久雄たちがみた地方からの分業の網の目が発生するのか、私にはわかりません。
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バブル的公共事業としての教育産業 (ハラナ・タカマサ)
2005-10-16 21:44:38
 木村さんのおはなしをよんでいるうちに、整理がついてまいりましたが、教育ってのは、国民国家がインフラ整備の一貫としてくんだ制度ですよね。あるイミ、一定以上の水準まで蓄積されれば(ま、わたくしなどは、同時に地域の伝統の破壊者とおもってますが)、あふれだす宿命をもっていたと。なにやら高度経済成長期後半の公共事業、ないし1980年代後半のバブル経済と同質のものをもっていたような(笑)。

 「うれないものは無意味」という市場原理は、能率/資源の適正配分って次元でわりきれば、ただしいんで、そのイミでは、教育産業のほとんどは幻想/バブルにすぎないと(笑)。そのうち、うれなくなる宿命をかかえているものが大半と。それは、しかたがない。

 しかし、学校法人を集金装置としてしかみていない理事たちとかをみるかぎり、ヤクザな宗教法人と同様、クライアントをだましつづけて、お布施をかきあつめて、アブクぜにをためこんでいるわけですね。「うれないものは無意味」というけど、「うれていれば、それでいいのか?」って、ソボクな疑問がわいてきます。拝金主義者の理事たちのすきな教育サービスってのは、哲学的なかおりなど、当然皆無です。そんなもの、いらんといえば、それまでですが、かわされている教育商品のまずしさは、めをおおわんばかりです。そのうち単価がどんどんおちていって、金持ちあいての特別メニュー以外は、100円ショップと同質の「きりうり」になっていくでしょう。あるいは、「自己開発セミナー」的な、あやしげな技法による、自己催眠ですね(笑)。

 「板さん」たちが、それなりに、カネまわりのいい客だけをあいてにする、技能工というのも、こういった構図からある程度自由というか、「価格破壊スパイラル」にハマらない、ながねんの知恵ってものを、背景にしていないでしょうか? 薄利多売は、アマゾン/マクドナルド同様、自分のクビをしめていく。すくなくとも、現場の労働者は、過労死寸前か、つかいすてでしょう。そうなると、労働者が、ほこりとユトリをうしなわないためには、ゴミ消費者の欲望に対応していたんでは、ダメだと(笑)。しかし、「上客」だけの市場を、みんなで、シェアするんでしょうか? それは、カネもち層にとっては、かぎりない天国のような社会でしょうが、それにのれない層が膨大に放置されそうです。

 整理がついたというよりは、混迷がましましたか(笑)。
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