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私はこの授業をすすめます
私たちの総合学習(ニッチゼミ)の活動内容は生徒の授業評価をデータベースにした担当者紹介雑誌の作成です。まだ、編集中ですが、受講生の推薦というコーナーを設けてみました。私のページのサンプルを掲載します。推薦は、植松紗恵子さん(上・写真)です。
■植松紗恵子さん■
木村先生の授業について私が感じたことを書きたいと思います。
日頃起きている何気ないこと、普段は気にとめないようなことを深く探っていくような授業です。…言い方を変えてみると、『普段は気にとめないこと』と思っていたが、実はそうではなく、色々な人や現代の社会環境の中で気持ちや感覚が麻痺してしまって『気にとめなくなってしまった、無意識に解らなくなってしまっていた』ことについて深く深く、『もぅそれ以上深く掘り下げて真実を見せないでくれっ!』というように社会や人間の心の、隠れた『根』を見る授業です。大袈裟か?私は『そんなにバカみたいに笑ってるけど本当のところどうなのよっ!』という、えぐるような先生の授業が好きなので推薦していますが、自分の考えを持っていなかったり、それを上手く文章表現できない人は向いていないかと思います。
買う人と売る人への分裂
いま、学校に最も欠落しているのは、この二者の〈対立的分裂〉です。売る人と買う人への分裂こそが、いま学校に突きつけられている至上命題なのです。
ためしに、こういう問いをお考えいただければいいのです。
「あなたは、もし、**地区に住んでいるから、このAスーパーのこの大根を買いなさい」
といわれたらどうでしょう?
「なんで?」
って思いませんか?この「何で?」を消し去る魔術こそが学校システムなのです。自分がいいと考えたお店で、自分がいいと思った品物を買えばいいのです。現在、学校はこうしたこの社会が基本としているシステムをすべて追い出しています。買いたくもないものを買いたくもない店で買っています。そして、
「まずい!?だったらでていってくれ!」
といっているのが売る側に相当する側なのです。これが、街のスーパーで行われていたらどうでしょうか?おそらく生きていけないでしょうね。こういう記述に対して、学校は商売をする場所ではない、という人に私はこう言うことにしています。
「だったら、君がもらっている給料という「カネ=money」を返却しろや!」
カネをもらっていたらその限りにおいて、売りと買いが存在します。そのときに、好きでもないものを買わされるということがあったら、自由市場という現在の社会の原理に反するでしょ?
私たちの総合学習が目指しているのは、学校に必要な市場原理を入れるという問題です。
売り「私はこういう品物=サービスを提供します」
買い「私はこういうサービスがほしい」
情報「あそこにはこういう品物=サービスがありますよ」
こうした三者の対立のなかから消費者が選択をする、そのなかから今学校でまったく脱落している自発性を喚起しようというのが私の総合学習のねらいです。
「いやな授業は受けなければいい。しかし、たえず選択の失敗というリスクと選択の財力による不平等という問題は存在する」
「どんなにいい授業だろうが、受講生がだれも来ず、来ても評価がさっぱり、だったらそれはゴミ!」
単位制高校、静岡中央高校は県下で唯一、こうした試みができる学校なのです。
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曽羽です。
早速リンクさせてもらいました。
今後ともよろしくお願いいたします。
「頭の良い人」というのはテストで高得点をとる術に長けた人ではありません。
木村先生の人柄や語り口調からつい忘れてしまいがちですが、倫理という授業の内容は非常に高次元だと感じます。多くの人が、勉強なんて将来役に立たないと考えていると思います。倫理という授業もそうです。しかし、この倫理には他の授業とは決定的に違うものがあります。それは「物事の本質の一端を知ることができる」ということです。これは大きな知的財産・精神の教養になると考えます。一つのことを様々な角度から考察できる人、他とは違った発想の持ち主など本質を知る素質を持った人には是非とも受けてもらいたいと思います。
さて、ここまで言ってしまうと倫理という授業は敷居が高いと感じてしまう人もいるかと思いますが、そうならないのが「木村先生の倫理」です。木村先生の授業内容は一言で言ってしまえば「とにかく面白い」です。もう少し砕くと、自分の体験談や身の回りの身近な例を用いた授業は非常に解かり易く、興味をそそられます。難しい内容でも解かるまで何度も説明してくれるので、終わった後でやっぱり解からないなんてこともまずないと思います。これは、より生徒に近い立場で授業を進めてくれる「木村先生の授業」だからこそです。楽しみながら物事の本質に近づけるというのは、とても貴重なことだと思います。そういう意味では、前記した人に限らず、誰でも気軽に受けてもらいたいと思います。
ここで言う〈子ども〉とは、年齢的な子どもではありません。
私たちは、思春期の少し手前から出発して思春期という時間の中で、疑問を抱きます。
「なぜ、みんなと同じでなければいけないのか」
「なぜ、友達を作り協調性がないとKYと呼ばれるのか」
「なぜ、奉仕活動という名の苦役を強いられるのか」
「なぜ、子供は愛があってもセックスをしてはいけないのか」
「なぜ、教員免許を持っているだけの人間を先生と呼ぶのか」
「なぜ、暗記が得意な人間のみが頭が良い人間だと判断されるのか」
どれも素朴な疑問です。
しかし、私たちは大人になるほど老いるほど、その素朴な疑問をまるではじめから無かったかのように手放してしまいます。
親や大人、社会に従順な人ほど、見る影もなく「当たり前」「常識」「ふつう」「一般的」という言葉にすり替えて、疑問に対する問いと答えを手放してしまうのです。
永井均は子供(精神的に未熟な時)に抱いた疑問を自分自身が納得のいくまで決して手放さない人のことを〈子ども〉と呼んだのです。
しかし、社会の中で素朴な疑問をぎゅっと手放さずに答えが出るまで握りしめていることはとても困難です。
そんな時に、高校の授業という空間に木村先生が現れるのです。
「君、それでいいの?君の今見えているのものは、本当に真実なの?ちゃんと考えてみたかい?君たちの考える力を大人たちはかすめ取って、都合の良い物にすり替えていないのかい?」
自分自身だけが持つ疑問に答えるのは自分だけです。大人や他人ではありません。
しかし、その答えを見つけるためには、映し出すための「鏡」が必要です。その鏡こそが木村先生であり、木村先生の授業の全てです。
そして、幸運なことに、単位制高校という場所では、「選択」するという経済行為によって自分自身でそれを手に入れることができます。
自分を生き、なりたい自分になりたいのなら、どこにいるのかわからない自分探しをする前に、木村先生の授業を選択することをお勧めします。
木村先生の授業の全てが終わった瞬間、自分の目に見える世界は変わります。
人生対応 ★★★★★
面白さ ★★★(受動的な人)
★★★★★(能動的な人)
わかりやすさ★★★★★
アフターフォロー★★★★★(授業に関することに限る)
親切さ★★★★
ライブ感 ★★★★★
心臓の弱い人★
授業中寝たい人★
授業中内職したい人★
授業中携帯やりたい人★
自主性のある人★★★
排他的な人★★
社会学・哲学に興味関心のある人 ★★★★★
当たり前が嫌いな世の中を斜めに見ている人 ★★★★★
今、変わりたいと思っている人★★★★
将来、選挙に出たい人★★★★
ディベートが好きな人★★★
自分の思いを吐露してみたい人★★★
いつも何かに疑問を感じている人★★★★★
猫が好きな人★★★
本当の学びを知りたい人 ★★★★★
本当の教師に出逢いたい人★★★★★