高校公民Blog

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管理職のモンタージュ 1 授業評価

2006-08-15 08:58:17 | 教育制度/行政

モンタージュ

 私にとっては校長や教頭といった管理職はある種の闇です。これから、この闇を覗いてみたいと思います。ただし、私は管理職でも人事課担当でもありません。したがって彼らが残した足跡や聞き込みや証言をもとに、間接直接証拠を貼りあわせてモンタージュをつくりながら、推理していきたいと思います。まず、みるのは、授業評価です。生徒による授業評価をめぐる現実をみたとき、一体、何がみえてくるのか、何が少なくともいえるのか、見てみたいと思うのです。

勤務評定の実質

 私は二度、校長に私の勤務評価を教えてほしいと申し出たことがあります。二度とも同じ答えでした。簡単にいうと、意味がない、ということでした。もちろん、現在勤務評定は非公表です。しかし、単純にここから二つの問を発したいと思うのです。

「一般教員は――それが出世の色気のある教員になればなるほど――この問を発しないのだが、それはなぜか?」

「大体、どの程度の評価をされているのか、がわからなければ、良くなろうと努力する方向性がわからないではないか?」

 この二つの問いにのちほど管理職のモンタージュ3答えることになりますが、この二つの問いをちょっとみただけで、おかしいとは思いませんか?
 いまはやりの絶対評価を引き合いに出してこう問うたらどうでしょうか?
 一体、教員評価は教員のどのような勤務内容にどのような割合で評価がなされ、到達したということはどのような段階評価としてなされるのか?が被評価者にはわからないということです。いえ、もっと大事なことがあります。教員というのはそういうことを積極的に管理職から引き出して、自分に引き寄せようという〈意欲!〉がない人で構成されているということです。入試の模試を考えてみてください。テストの内容は当然はっきりとわかっています。そして、それぞれの部分に部分点が明示されており、結果として○がつき、×がつけられ、最終的に総合点が明示されています。それでさえ、受験生は正解の、模範答案やその解説集を求め、たんねんに自分の結果とひきくらべ、次の努力のために反省をするのではないですか?そうです。教員の世界にはこの世界が評価という自分の給料に直接反映するだろう行為について脱落しているということなのです。管理職には、この〈下品な〉問いを発してこなかった人がなっています。そして、管理職になって、その評価を明示する必要もなく、説明責任も果たさない人がなっているということです。そうです。教員の世界には客観的な評価の基準もなく、評価対象も明示されていないのです。これは何なのかということです。

授業評価は勤務評定外

 さらに次の事実をつきあわせたらどういうことになるのでしょうか?
 学校は学校経営計画書というものを作成しているのです。簡単にいうと、これは、この一年間自分はこのような目標を立て達成すべく努力するという、学校の努力目標を外部に掲げたものです。そのなかに、生徒による授業評価を実施し、授業改善に役立てるという項目があります。そして、その趣旨を校長が職員会議で教職員に説明したときに、

「この評価は勤務評価に結びつくのか」

という組合の質問が組合の方からだされたのです。この質問に対して校長の回答が感動モノでしたね。
 
「生徒の授業評価は、勤務評価には入れるつもりがありません。あくまでみなさんの授業が向上するようにという目的です」

 これは公式発言です。これまで、生徒の授業評価を実施したことはありませんでした。正確に言えばそういうことは任意だったのです。そして、今回、校長は勤務の一環として生徒による授業評価を義務づけたのです。しかし、それは、校長に提出もしない。そして、校長は勤務評価として含めないと公表したのです。
 以上をふまえて事実確認をします。学校の中心的な活動は授業です。そして、その授業にかんしてこれまでどのような評価がなされてきたのかは不明でした。そして、今回、授業という業務の重要な要素を占めると思われる(だって、他に何を評価対象にするのです!)生徒の授業評価は勤務評価の対象とはしないと管理職は断言したのです。

授業を見に来ない管理職

 私が夜間定時制にいたときのことです。私の勤務していた定時制は1学年2クラスの大きな定時制で、定時制の教員だけで15人いました。多いといっても15人です。多寡が知れてます。校長は、通常全日制と定時制兼務です。しかし、勤務時間は全日制が8時30分から17時まで、定時制が13時から21時までと、両方勤務したいたらたいへんだというので、大抵の校長は、定時制の打ち合わせに顔を出して、あとは定時制の教頭に任せているのです。つまり、17時でお帰りということなんです。
 私はある日、教頭にこう尋ねてみました。
「教頭は私の授業をどう見ていますか」
「熱心にされていると思いますよ」
「教頭は、私の授業を見たことがありますか」
「うん?」という感じで少し言葉がつまりました。
「ご覧になっていませんよね」
「ええ」
「じゃあ、わからないでしょう、私がどんな授業をしているか」
「職員室で準備されているのをみていますから」
「でも、私の授業はご覧になって…」
「いや、そうなんです、みなさんの授業を拝見したいと思っているんですが」
 もういい、と私は思ったのです。話を切り上げました。もういい。
 その後、教頭が教員の授業を見ようとするところを私はついに見ることがありませんでした。少なくとも、私の授業を見にくるなどということはなかったですね。ましてや、校長にいたっては、いわんやをやでしょ、だって、いないんだから。教頭の名誉のために言えば、この人はこの学校が初めての教頭職であり、はじめは、研修会を持とうとしたり、教育熱心でした。もちろん、他の教員どもは迷惑そうでしたけどね。そして、その研修会は一回開かれたきりでした。そういう場所ではないということに気づいてか、どうか、私には知る由もありません。
 ご注意願いたいのはこれが15人という小規模の学校の話だということです。そして、では1学年1クラスの定時制高校、つまり、教員定数が半数の学校では教頭は各教員の授業をきっちり見ているのか、という問題です。さらに、これが通常の全日制にいたっては(少なくともこの3倍程度の教員が勤務している)教頭が一人一人の授業を見ることができるのか、ということです。それこそ、数字上では、いわんやをやの世界です。いやいや、それは、キャパの問題なのでしょうか。  

自己評価というナルシズム

 あなたは、イチロー、松井(秀樹)と、甲子園のスラッガーと私、木村のバッティングの評価基準がわかりますか?ちなみに、木村はここ20年くらいバットをもったことがありません。そして、ソフトボール以外打ったことはありません。硬球なんて一度もありませんね(笑)。
 しかし、これきっちり説明がつくのです。松井やイチローは少なくとも甲子園のレベルをくぐっています。つまり、甲子園の世界の中でプレイをし、結果を残し、評価されてきているのです。そして、プロによるマチュア野球の選手の評価の網の目をくぐって、日本プロ野球界のプレイヤーとなったのです。そこへいたるには、評価のピラミッドが細かい網の目のように張り巡らされているのです。今からでも木村が本気でプロになりたければ、その網の目に所属しようとすればいいのです(笑)。そして、その最小単位にはバッターボックスに立ち、ピッチャーのボールを打つという行為が存在するのです。その無限の繰り返しを、野球の世界の偏差値に換算して、最後に松井やイチローへと至るのです。そして、あくまでその最小単位は、投げたボールを打つという行為なのです。

「うまく打球が飛んだ。」
「いや、まったく方向違いの方向へ飛んだ。」

 打球という対象を、評価し、その段階も明示される世界がここにあるのです。私たちはちょっと想像をたくましくすれば、生徒の活動がボールであり、バッティングという行為が授業をはじめとした教員の活動であること、この話題に即していえばまさに、授業を行い、テストを行い、最終的に生徒の結果が成績という形ででることなのです。コーチや監督を管理職と置き換えて怒る方がいますか?この簡単な比喩から現在の管理職の恐ろしき現実があぶりでてくるのです。
 打者を評価するときに、打者の打球のゆくえに興味がない人間の存在、打者のフォームにも興味がない人間、そして、それでも評価を下している人間がここにいるということです。
 成績会議はもっとも色濃い教員の活動の〈闇〉です。いったい、どのような基準で成績は付けられているのか、どのような客観的基準で、どのような配分で付けられているのか〈闇〉です。ただ、そこには、点数と、平均点とが列記されているのです。教員のどのような働きかけで、使用前の生徒と使用後の生徒のどのような差異が発生したのか、一切闇です。
 しかも、管理職は教員の授業に関する、一切の評価対象を手にしていないのです。
 やっと、教員の授業評価に関するすべての素材がそろいました。いま、自己評価が流行中です。一体、この自己評価とは何でしょうか?
 現在、学校の教員の世界では、イチロー、松井と甲子園のスラッガー、そして、木村というランクを付ける一切の基準も、評価対象も存在しないということです。
 その上での

「自己評価!」

です。それはね、こういうことです。
 ピッチャーが投げたボールを打った!そして、打球のゆくえも、打球のフォームも確認しないで、ましてやヒットだったのか、ボテボテのゴロだったのかも確認しないで、コーチと監督は本人に聞くんです。

「どうだった?」

そして本人、答えるのです。

「まずまず」
「最高!」


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