授業専属教員の学校横断的存在を制度とする
「倫理」が好例であるが、きわめて専門性が高く、一つの学校で単独で担当教員を置けない科目がある。芸術科目などもそうだ。こうした科目を、片手間に教員にいくつもの教科指導の負担を負わせる非合理をこれまで非合理として認識してこなかった。〈顧客への配慮〉のかけらもしてこなかったのである。
本気で一つの科目だけを教え、生徒のニーズを研究するという制度からしか、消費社会に対応できる多様なスタッフを学校に配置することはできない。
この
「授業専属教員の学校横断的存在」
を考えてみよう。いま夜の定時制には日本史も教え、世界史も教え、現代社会も教えるという愚劣が何の疑いもなく進行している。しかし、この制度を考えてみよう。定時制だろうが、複数の単独の専門家を配置することができる。全日制を考えてみよう。公民科目だけでも複数の教員によるメニューが存在しえる。「政治経済」ひとつとってもアプローチは複数存在し得る。それをできるかぎり、シラバスに開示する。そして、生徒の選択制をひく。ここから、魅力ある複数の選択肢という現実が実現可能となる。
いま壮大なる怠慢により、「倫理」は誤解の渦のなかで高校の世界から消えようとしている。それはそうだ。プラトンからデリダまで、邦訳でよい、読むことの大変さ、それを生徒のレベルへと落とす大変さを考えよう。
この制度が可能となれば、私は〈売り込み〉をすることになる。生徒に試聴を提案し、いかに哲学的思考がこの消費社会においての発想の原点となるのかを示そうではないか。
分掌と授業を切る
授業専門という制度を確立させる。分掌は極力専門教員に専属にする。つまり、教員を授業と事務労働を兼務させるという制度を終焉させる。
部活動の独立
部活動は現在、教育法のどこにもその姿を見出すことのできない教育活動である。私たちには、就業規則はない。しかし、そのかわりを果たすのが、教育基本法や学校教育法などの教育法である。しかし、そのいずれにも部活動という文字は存在しない。部活動を一つの仕事とし、独立させ、社会体育への移行を果たさせなければ、授業が第一などという現実は現在化しない。
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「倫理」が好例であるが、きわめて専門性が高く、一つの学校で単独で担当教員を置けない科目がある。芸術科目などもそうだ。こうした科目を、片手間に教員にいくつもの教科指導の負担を負わせる非合理をこれまで非合理として認識してこなかった。〈顧客への配慮〉のかけらもしてこなかったのである。
本気で一つの科目だけを教え、生徒のニーズを研究するという制度からしか、消費社会に対応できる多様なスタッフを学校に配置することはできない。
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を考えてみよう。いま夜の定時制には日本史も教え、世界史も教え、現代社会も教えるという愚劣が何の疑いもなく進行している。しかし、この制度を考えてみよう。定時制だろうが、複数の単独の専門家を配置することができる。全日制を考えてみよう。公民科目だけでも複数の教員によるメニューが存在しえる。「政治経済」ひとつとってもアプローチは複数存在し得る。それをできるかぎり、シラバスに開示する。そして、生徒の選択制をひく。ここから、魅力ある複数の選択肢という現実が実現可能となる。
いま壮大なる怠慢により、「倫理」は誤解の渦のなかで高校の世界から消えようとしている。それはそうだ。プラトンからデリダまで、邦訳でよい、読むことの大変さ、それを生徒のレベルへと落とす大変さを考えよう。
この制度が可能となれば、私は〈売り込み〉をすることになる。生徒に試聴を提案し、いかに哲学的思考がこの消費社会においての発想の原点となるのかを示そうではないか。
分掌と授業を切る
授業専門という制度を確立させる。分掌は極力専門教員に専属にする。つまり、教員を授業と事務労働を兼務させるという制度を終焉させる。
部活動の独立
部活動は現在、教育法のどこにもその姿を見出すことのできない教育活動である。私たちには、就業規則はない。しかし、そのかわりを果たすのが、教育基本法や学校教育法などの教育法である。しかし、そのいずれにも部活動という文字は存在しない。部活動を一つの仕事とし、独立させ、社会体育への移行を果たさせなければ、授業が第一などという現実は現在化しない。
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私立大学によっては、半分ぐらいを、そういった「外注」にまかせているでしょう(笑)。でも、常勤スタッフとしてかかえこむだけの フトコロがなければ、しかたがありませんよね。
もっとも、きくところによると、私学の一部には、高校なみに専門無視した担当をやらせているところも、あるとか。それなりに、なのとおった女子大ですが、西洋政治思想史専攻の研究者に、社会学やら法学まで、おしえさせていたとか(笑)。さすがに現在は、政治学と思想史のゼミのご担当のようですから(でも、政治学に、国際政治がふくまれているのには、わらった。かれは、ヘーゲルの『法の哲学』が専門だから)、つなぎの人事だったんでしょうけど(笑)。
大学には、顧客というコンセプトはない、と私は断じます。私は、けっしてマネタリストではないのですが、ミルトン・フリードマンが提唱したというクーポン券制度というのは、ほしいと思いましたね。授業料を払ったらその分のクーポン券をもらう。そのクーポン券を本当に受けたい授業担当者に渡す。そのクーポン券を受けて彼らは給料をもらう。そうでもしねえ、とアカンと私は思ったのです。私はせめてロクな論文も書けねえ奴はレッスンプロという道を開いて、レッスンプロでも食えるという道を開くべきだと思いましたよ。みかん箱立てて、俺の講義を聞いてくれ、と若い人助手だの、オーバードクターと呼ばれる人たちが講義する場を開いてやって、受講生がおもしろければクーポン券はらう――そうでもしなければ、とてもじゃないが、教育と研究の分離だの、顧客のニーズだのが、大学に浸透してゆかないと思わされました。今、学生が授業評価をすると即ラクを求めるという声を聞きます。私はだったら
「おもしろくて品の高い授業やりゃあいいじゃないか」そういいたいんです。そういうニーズはあふれているのだ、
「いい映画を君は見ないか?いい映画は就職に即結びつくか?人はいい映画にはカネをはらうじゃないか、払ってでもみるじゃないか?」
繰り返します。大学の人間には商人=アキンドがいないんです。みんなお侍さんばっか!うるせえ「百!」この怒号の嵐ですよ。
いい制度だとおもいます。「なげ銭」って、ストリート・ライブみたいで。ただし、私講師って制度も、ヘーゲル大先生みたいな、身分が保証された教授さまもいたわけで、ある意味、身分差別のなかの、下位制度でしかなかったと。現在の非常勤講師制度と、どっちがマシか微妙な感じも(笑)。
問題は、全員が私講師的状況で、やるヤツがいるか、ってことですね。趣味的には、ウェブログで、かっこいい議論展開して、お代もとらずに、お客さんぎょうさん、ってかたもいますけど、職業としての講演・講義が、保証皆無の「なげ銭」制度で成立するか、人材があつまるかですね。
「おしえるのが趣味」って、生活費かせぎと無縁な領域、あるいは、義侠心からの展開はあるとおもうんですが(いまも、現にあるし)、それ以外では、「そして、だれもいなくなった」になりそうな気がします(笑)。
非常勤講師のまま塾などでかせいでいる50代の男性がほとんどいない。すくなくとも、家庭をきずいているいるひとには、皆無だとおもわれる、とか、ながしでギターひいて、うたうたって、そこでの「なげ銭」だけで、毎日しのいでいる人物は、たくさんはいなくて、……とか、かんがえると、理想を実現するのは、タイヘンそうです。
あと、お客さんのニーズってのに、最高度にこたえようとすると、スポーツ選手みたいに、現役生活が極端にみじかめになりがちだし、ハイリスク・ローリターンが基本だとおもいます。そんな「ニーズ」に、あわせようといった、酔狂な人物をひきよせるためには、ものすごい破格の条件を、一部に用意しなきゃいけなさそうですね。