高校公民Blog

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北京オリンピック考 2 ミクロ的実存

2008-09-04 23:49:15 | 経済分野の授業

沈黙する二つ目

 
私は長らく落語を見てきています。いろいろな落語家をみてきました。独演会へいけば、最初は前座の噺をきく。そして、二つ目、真打ちの登場となる。あるとき、沼津へ立川談志がきたんです。私は、一時期、立川談志を崇拝していたのです(笑)。通い詰めましたね。私は、真似がうまいんです(笑)。一日、家元、談志の高座をみていると、こっちまで、あの口調が伝染(うつ)ってきてしまうんです(笑)。腕を組んで、口をちょっと歪めて、話てるんです。さて、その沼津の高座で、二つ目が、驚いたことに今話しているその噺を忘れてしまったのです。そして、沈黙が続きました。私は驚きましたね。後にも先にも、初めてで最後です。客が、冷たい声をかけました。

「忘れちゃったの?」
 
 察するに余りあるものでした。
 私はよく、落語家がこういうことが起きないな、と感心しています。話を忘れるのではありません。そこではありません。これだけの長い話を最初の話し始める時点で、終りまで話せるかとよく気が狂わないなと思うのです。初めの時点で終わりに到達できる人はいません。どこで、どう、話を記憶しているか、だれだって不安なはずです。この次の自分が他人である、自分で自由にならないという感覚、次の自分が信じられないという感覚、おわかりになるでしょうか?この不安です。

will have +過去分詞

英語嫌いな方にはすみません。いやみではありません。これは、未来完了といいます。未来完了というのは、文字通り未来に完了してしまっているということです。
ま、翻訳としては、

「・・・してしまっているだろう」

ってなります。未来のある時点でのことがそうなってしまっている、という安心を得たいと人は思います。未来に、成功してしまっているだろう。
どうも、私たち日本人はリスクが嫌いです。だから、成功をはじめにおいて物語を作りたがるのです。たとえば、今回、北島康介が平泳ぎの100メートル、200メートルで、金メダルをとりました。大体、はじめのほうですが、やわらちゃんこと、田村亮子が銅メダルのとき、銅だって、大変なのですが、そこから彼女の成功物語をドキュメントのようにして流すんです。大変だった、しかし、こうして残念だったが銅メダルだった、と。そうです。未来が過去となり、銅メダル獲得の現実がおりたところで、つまり、未来が文字通り完了したときに、私たちは物語を原因と結果を逆立ちにして組み立てるのです。努力したから、成功した。苦労したけど成功した。成功の秘訣はなんでしょうか?
結果から、つまり未来でしかない不確定なときの、不確定を、不確定なままでたまたま結果がおりてきた、というのではなく、未来を一つの結果として、過去の努力をあたかも、未来とのまったき断絶がなかったかのように扱うのです。
現実はそうではありません。現実の努力は、未来の成功など予定しないのです。むしろ、現実の努力は、未来の成功と結びつくことなどまれなことなのです。多くのアスリートが敗退していきます。しかし、私たちは、そういう敗退の人たちにも、努力があったことを認めようとしません。関心を寄せようとはしないのです。
未来など99999失敗である。しかし、100000の内1の成功があるかもしれない、という成功のチャンスを前にしたときの、哲学を考えてみましょう。なぜ、私たちは、敗退した人たちへの関心をよせないのでしょうか?なぜか、そうした不確定を前にした、未来は完了していないし、完了する見込みもない、という哲学を私たちは考えていないように思えるのです。

将棋棋士、羽生善治のふるえ

棋士は一体何手の手を読むのか、といえば、考えられない手数を読むはずです。ところが、彼らが口をそろえていうのは、120手とか、100手とかの手数のなかで、勝ちがみえたのは、「終局の5手前だった」とか「10手前で、いけると思った」という程度なのです。
NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』という番組で、棋士羽生善治が特集されたことがありました。そのときに、勝ちが見え始めたときに、羽生の手がふるえ始めるところが、ショットとして流れたのです。羽生ほどの棋士であれば、当然読み切れるはずです。ところが、羽生は激しく震えているのです。それは、読み切れたからです。彼らの世界でさえ、読み切れたところで、次が不明なのです。

「本当に相手がそう応じるのか?」

次の一手さえ不明なのです。何百手と読む能力がある彼らが、何と次の数手さえままならない胸突き八丁を超えてはじめて、勝利にたどり着くことができるのです。そこには、未来が完了しないままつづく不確定の世界があります。

北島の予選のことば

北島が予選通過のときに、ポロっとこう話したことを聞いたのは私だけでしょうか?

体が動いてくれるかどうか不安でした

体が、初めの時点で終わりの時点の動きを予測できないのです。

本当に、練習通りに動くのか?

次の自分の体が他人なのです。未来はまったくの不確定なのです。終わりにたどりつけるのか、どうか、本当に動いていくれるのか?こうした不安こそが彼らが直面する現実なのです。そして、不条理に結果がくるのです。
 私たちが、結果でしかオリンピックを見ることができないなら、ほんの少数をしかみることができません。多くの人たちを見つめる目が脱落するからです。
 私たちはなぜ、一回戦で消えてしまった。柔道の鈴木をみつめないのでしょうか?
 未来の不確定といかに対するか?
 負けた現実を、私たちは努力との関係でどのように考えていけばいいのか?
 失敗したり、負けたところにドキュメントを見つめたときに、見つめる目をもったときに私たちは一歩、スポーツが大衆民主主義のレベルへと落ちてきたと考えることができると私は思っています。



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