ゼロトレランス
ゼロトレランス方式(ぜろとれらんすほうしき)とは、「割れ窓理論」に依拠して1990年代にアメリカで始まった教育方針の一つ。「zero」「tolerance(寛容)」の文字通り、生徒の自主性に任せる放任主義ではなく、不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式。日本語では「不寛容方式」「毅然とした対応方式」などと意訳される。(Wikipediaより)
ゼロトレランスという言葉をご存じでしょうか?
主観を一切排除して、逸脱行動のリストを客観化し、それに対する罰則を明示する。教育のベンサミズムといっていいでしょう。ベンサムはこう考えました。人は快楽と苦を計算し、より快楽の多いよう行為選択するものだ、と。大事なことは、明確な快楽と苦の存在と、客観的な基準である。それが人を秩序へと向ける。そう考えたのです。功利主義と呼ばれる発想がここにあります。人は効用を求めて自立的に生きようとする。計算し、より効用があがるものを善として生きようとする。こう考えたのです。
もちろん、こうした思想が出てくる背景には、商品経済の広汎で深い社会への浸透を前提としています。市場原理を前提にしているといってよいでしょう。すべて、貨幣換算ができるという状況が前提なのです。だから、ま、進学校的といってしまえばいいんです、本当は。
このゼロトレランス方式は1990年代、アメリカで広がり、学校秩序の構築という目的に有効であるということで、現在我が国でも実験的に行われています。
ゼロトレランスの前提
しかし、これは、市場を前提にしない閉じた構造のある我が国の学校に導入すると、たんなる独裁への道をたどりかねないのです。公立学校には市場がありません、あるいは正確にはいびつな市場だけが存在するのです(受験という市場はありますね)。つまり、教員各人の生活は、何も需用者の直接的な支払いから成り立っていません。
「イヤだったら、出ていってくれ」
この言説を基本的に堂々と主張できます。正確にはそれで、給料が左右されないのです。
さらに、生徒・児童の側からしたとき、転校は容易にできないということと、よほどのことがないかぎり学校を出ていくことができない/でていかなくてすむ、という構造が存在しています。
「いてやってんだ/好きでいるわけではない」
という言説です。
こういう状況で力関係が生徒・児童と学校側で入れ代わったとき、生徒独裁が誕生するわけです。
そこには、選択したわけでも選択されたわけでもない、あるいは、選択できなく、選択させない人間関係があるばかりなのです。そこで、ゼロトレランスを導入すれば、また、ちがう地獄が出現するだけなのです。それは、これまで学校が蓄積してきた、たんなる、些末な無意味な校則の乱舞という過去をみればたくさんでしょう。
ゼロトレランスが仮に機能するとすれば、そこには、まず前提として、市場原理が存在しなければいけません。選べるということ、選ばれるということ、これが基本の関係性が学校と児童生徒及び保護者との間にあることなのです。
愛の体罰
愛の体罰は存在する。これが、「ゼロトレランス 1 女王の教室」で私が書いたものでした。真に教育という価値を体現していれば、需要する側が受け容れるのです。それは、体罰の目的が明確だということです。あるいは、ベンサミズムではありませんが、体罰を受ける側が明確に教育の利益を快楽として受けとめ、教育を受けることができないことが損だと認識することなのです。現在、学校は完全にここに失敗しています。市場原理は万能ではありません。しかし、仮に、自分にあわなければ学校を変えるということが自由に起きたとしましょう。そして、自分に本当にあったといえる学校へと移動ができたとしましょう。そのときに、起こることは次のことです。生徒児童は自分で選んだのです。好きできたのです。いやなら、学校を変えればいいのです。そして、教員も
「イヤならでていってくれ」
といったとたんに、自分の給料が減るのです。その覚悟をもって退学や転学を勧めるのです。
そのとき、愛の体罰が出現するのです。それも、「ゼロトレランス 2 体罰・是か非か」で紹介したホッブズやロックがいう意味での契約をもって出現するのです。
「私の学校は体罰を行います。絶対損はさせません。」
そして、そのチラシを見て応じてくる児童生徒がいる。保護者がいる。そして、その学校の教員が生活できている(ということは、逆も当然ありえます。需要が集まらず、倒産!解雇!リストラ!)。
実は、もと中日・阪神の監督の星野仙一は、この具体的な体現であり、戸塚ヨットスクールはここをめざしているのです(笑)。戸塚校長は、監獄に行きました。そして、出獄後堂々と体罰の正当性を主張しました。私は趣味ではありませんが(笑)、ここに「女王の教室」を堂々と目指す団体があるということです。
なお残る問題
こうして、市場原理がはいったとき、お定まりの問題が出てきます。格差の問題です。問題生徒の保護者が貧困だった場合、問題生徒の問題だけが排除されて残っていきます。どこも引き取り手がない生徒児童の問題。それが貧困と重なった場合。これが露骨に出現するのです。まさに、ここに実は公立学校の意味があるのです。憲法のいう生存権の問題です。
【参考】
・ゼロトレランス 1 女王の教室
・ゼロトレランス 2 体罰・是か非か
・愛の体罰
・学校嫌いの脱構築 ホッブズとルソー
ゼロトレランス3で、1.2がじつにうまく収束され、推理小説のような「どんでん返し」があり、実におもしろい授業だと感心しました。
一点だけ、思ったことがあります。
「私の学校は体罰を行います。絶対損はさせません。」という学校と
「私の学校は体罰を行いません。絶対損はさせません。」という学校が出現したとして、市場ではどちらが淘汰されるかという点ですね。
興味あるテ-マではありませんか。
■「ゼロトレランス1」でコメントをいただきましたが、お返事を書きませんでした。それは、おっしゃっていただいた「どんでん返し」をそこでおみせするわけにはいかない(笑)と思ったからです。悪しからず。■それから、興味あるテーマとお書きになられたのは、「ゼロトレランス2」で一応書いたつもりです。それこそ、市場がきめるんです。双方が自己原因であればいいのです。正しいと、そして、すべてを受け容れるのだ、と。でも、体罰する人間には僕はルサンチマンしかみないですね。基本が。出来の悪い教師ばっかりだったですね。僕の周りは。
階段の上から見下ろされているような、不思議な気分ですね。
読まれている。
それでも、「くそ!やられちゃったよ(笑)」という爽快感のようなものがあります。
最低「自動車学校」にはならないと。
「体罰」やってゼニになるのか。
おっしゃっていたことの意味が、だんだんわかってきたような気がします。
そして、「私の学校は体罰を行いません。絶対損はさせません。」
そういった学校をめざして職員が一致団結していかなければ、ウチの学校にくる生徒の質は上がらない。
そのためには、教員の質をあげなければならない。
教員の質を上げるためには、どうしたらいいのか。
木村先生の「ご苦労」が伝わってくるようですよ。