なぜ「私の命は大丈夫」なのか? 大ヒット映画『ディア ファミリー』 その原作との違いから見えてくる宗教・信仰への無理解さ【高間智生氏寄稿】
2024.06.30(liverty web)
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《本記事のポイント》
- 「私の命は大丈夫だから」について、映画版と原作の意味の違い
- 余命10年の命を支えた神への信仰と「一粒の麦」
- 宗教や信仰に無理解で鈍感な日本でいいのか
1970年代。小さな町工場を経営する坪井宣政と妻・陽子の娘である佳美は生まれつき心臓疾患を抱えており、幼い頃に余命10年を宣告されてしまう。
どこの医療機関でも治すことができないという厳しい現実を突きつけられた宣政は、娘のために自ら人工心臓を作ることを決意。知識も経験もない状態からの医療器具開発は限りなく不可能に近かったが、宣政と陽子は娘を救いたい一心で勉強に励み、有識者に頭を下げ、資金繰りをして何年も開発に奔走する。しかし佳美の命のリミットは刻一刻と近づいていた。
大泉洋が主人公・宣政を熱演するほか、妻・陽子役を菅野美穂、娘・佳美役を福本莉子が務めた。主人公のモデルとなった筒井宣政氏と20年以上にわたり親交のあるノンフィクション作家・清武英利による膨大な取材ソースを基に『糸』の林民夫が脚本を手がけ、『君の膵臓をたべたい』の月川翔が監督を務めた。
「私の命は大丈夫」についての映画と原作の違い
初登場興行収入ランキング一位と大ヒットしている本映画『ディア ファミリー』。しかし、清武英利氏の原作ノンフィクション『アトムの心臓』と、今回の映画版には大きな違いがある。
原作では、主人公・宣政の二女で、重い心臓病にかかっていた佳美が、若くしてキリスト教に出会い、篤い信仰者になっている。そして、人間の本質は魂であることを受け入れていた父親が自分を救うために始めた人工心臓の研究を諦め、もっとニーズがあるバルーンカテーテルの研究に舵を切ることを打ち明けた際、「人の命を助けるものを作るんでしょ。すごく嬉しいよ。佳美の誇りだよ」と言って、父親の背中を後押しする設定になっている。
しかし今回の映画版では、佳美が信仰を持っていたということそのものが完全に削除されている。そのため、この場面で佳美役の福本莉子氏が語る「私の命は大丈夫」というセリフを理解することが困難になっているのだ。実際に佳美さんは家族の必死の看護も虚しく、1991年に23歳で帰らぬ人となっている。
「一粒の麦、死なずんば」
自分の命を後回しにして、他の人々の命を救うことを父親にお願いする――。このような自己犠牲的な選択を潔くできたのは、やはり、キリスト教的な愛の精神を佳美が深く信じていたゆえではないだろうか。
聖書には「一粒の麦、死なずば」という有名な言葉がある。「一粒の麦が、地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネの福音書第12章24節)という自己犠牲の精神を象徴するものだ。
大川隆法総裁による公開霊言『キリストの幸福論』のなかで、イエス・キリストの霊は、自らの生き方そのものが"一粒の麦"であるとし、次のようにその意味を語っている。
「十字架において、私が人々に教えんとしていることは、『"一粒の麦"が命を捨てることによって、万の人が救われることがあることを知りなさい』ということであるし、『それほどまで激しく神を愛することが、あなたがたにはできますか』ということを、日々、問うているんですね」
神を愛することの証として、隣人を愛し、尊い犠牲を払うことは、"魂としての自分"をこそ生かすべきであるという信条があって、初めて可能になるだろう。そして、生き通しの命として神に愛され、あの世で、神近き人間として生きることが許されることこそが、魂にとっての本当の喜びだということだろう。信仰深かった佳美が肉体的生命を永らえる希望を断念した背景には、自分が"一粒の麦"として生きるという選択をしたという自覚があったに違いない。
宗教や信仰に、無理解、鈍感な日本でいいのか
原作で、しっかりと描かれていた佳美の信仰が、映画版に際して完全に削除されてしまったのは一体何故なのだろうか。
"日本人受け"しないと思われたのかもしれないし、あるいは、ある宗教団体の問題が近年大きな話題になり、社会が宗教に対してネガティブになっていることに配慮した結果なのかもしれない。どちらにせよ、もし欧米で映画化されていたなら、もっと感動的な映画になっていたのではないかと思えてならない。
佳美が23歳でこの世を去る間際、病室には家族や友人、教会関係者たちが集まって満杯になったという。
そして臨終の間際には、誰が言うともなく讃美歌が歌われ始め、何時間もコーラスが続き、看護師までも声を合わせ、静かな大合唱になった。そのなかの一人、松尾氏は「神様と人の魂が出会う瞬間に立ち会っている」と感じ、「神様が作り上げたこのときに、安易に触れてはいけない」「静かに祈りを捧げて、彼女を神のもとへ送り届けたい」と思ったのだという(『アトムの心臓』より)。
こうした感動的なシーンは映画版には影も形もない。映画版は、娘思いのお父さんが、持ち前の猪突猛進の根性で、不可能と揶揄されたバルーンカテーテルの商品化を成し遂げたというレベルの美談になっているようにも見える。
家族の結束や家族のために頑張ることは、もちろん素晴らしいことである。しかし、宗教的真理を信じ切って、多くの人々のために、自らは「一粒の麦」として命を投げ出し、"魂の永遠の輝き"の方を取ったということは、遥かに普遍的で精神性の高いことではないだろうか。
崇高な宗教的真理に対する鈍感さや無理解が削除の原因なのであれば、それは日本社会にもう一段の"魂の教育"が必要だということを示してはいないか。大川隆法総裁は著書『生命の法』に収録された4章「魂の教育について」で、次のように語っている。
「まず、『人間の本質は魂である』ということを知りなさい。そして、『その魂は永遠の生命を持っていて、転生輪廻を繰り返し、この世で精進をしながら、魂を磨いている』ということを知りなさい。魂が自分の本体であることを知ったならば、信仰に目覚めなさい。信仰を尊いものとして生きていきなさい。その信仰の中身として、『愛・知・反省・発展』の四原理を実践しなさい。そして、信仰を実践することによって、あなた自身が光り輝くようになったならば、その光を数多くの人に分け与え、この世を仏国土に変えていくように努力しなさい」
もちろん、映画はエンターテインメントであって、面白さを優先すべきものなのだという意見もあるだろう。しかし、どのような映画が作られ、流行るかは、その国の文化程度を反映するものであるし、少しでも良い作品を送り出そうとする努力が社会に及ぼす影響には、計り知れないものがある。その意味で映画もまた、一つの"魂の教育"であって欲しいのだ。
『ディア ファミリー』
- 【公開日】
- 全国公開中
- 【スタッフ】
- 監督:月川翔
- 【キャスト】
- 出演:大泉洋 菅野美穂 福本莉子ほか
- 【配給等】
- 配給:東宝
- 【その他】
- 2024年 | 116分 | 日本