かえるネット木津川南

大阪市南西部で活動する日本共産党の青年後援会のブログです。

3・11以後の政治の変化と日本の進路をめぐる対決点6

2011-09-08 08:29:30 | 論文紹介

【なぜ「社会保障と税の一体改革」が出てきたのか】<o:p></o:p>

 この社会保障と税の一体改革は、実は菅政権がはじめて唱えた主張ではありません。社会保障と税の一体改革が本格的に政治日程にのぼったのは、福田政権の「社会保障国民会議」の下でです。さらに麻生政権の「安心社会実現会議」でも打ち出されていました。こうした路線が台頭する背景には、構造改革の急進的実行のもとで、貧困や格差、餓死、自殺、ネットカフエ難民の増大など社会の矛盾が爆発し、構造改革で打撃を受けた地方が衰退するという問題がありました。

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 企業のリストラを強行し社会保障や公共事業投資を削減する構造改革をこのまま継続したのでは、大企業がうるおっても、社会が破綻して構造改革路線そのものが続けられない。こうした矛盾に対処するためには、若者の雇用・就労支援、生活保護給付の拡大など社会保障支出の強化は避けられない。そうかといって構造改革を止めるわけにはいかないので、その財源として消費税の引き上げで対処しよう。いわば構造改革延命のための路線として「社会保障と税の一体改革」が出てきたわけです。つまり、「一体改革」登場の背景には、雇用・貧困対策、社会保障について一定の手当ては必要だという認識があったことは否定できません。<o:p></o:p>

 ところが福田内閣や麻生内閣には、構造改革の矛盾の激化を前に、国民に負担を強いる消費税引き上げなどを実行する政治力はありませんでした。それどころか、政権交代で民主党政権ができ、消費税引き上げは消えた。ところが、その民主党政権が再び構造改革に復帰するなかで、「一体改革」論があらためて菅政権のもとで消費税引き上げの口実として出されたのです。

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 菅政権はこのコ体改革」をすすめるために、まず20101028日に「政府与党社会保障改革検討本部」をつくります。しかし、ただ消費税を引き上げると言うだけでは国民の納得を得ることができない。社会保障を充実するという格好をつくらねばならない。そこで、「社会保障有識者検討会」を設け、一ヵ月で検討会の報告をもらいまし<o:p></o:p>

た。こうして消費税引き上げの口実をでっちあげたのです。

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 しかし、消費税を引き上げるには、民主党内の強い反対論も押さえ込む必要があります。とくに一年生議員のなかには、○九年総選挙に、構造改革の政治に終止符を打つということを掲げて当選した人がたくさんいます。彼らにとつては、構造改革の政治の再建、TPP推進、消費税引き上げでは、次の選挙は勝てないという危機感があります。小沢派は――小沢は本来は構造改革の推進派ですが、菅政権に反対するという思惑で――、こうした一年生議員の構造改革に対する危惧を吸収すべく、消費税の引き上げに消極的な態度をとっています。そこで菅政権は、126日、仙谷由人のもとに党内に「税と社会保障の抜本改革調査会」を立ち上げて、党内での消費税引き上げ合意に動きます。これらの準備を整えた上で、今年二月には、「社会保障改革に関する集中検討会議」をつくり、消費税改革に乗り出したという経過です。

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 ここで注目されるのは、有識者検討会にしても、集中検討会議にしても、「消費税」という言葉が一回も出ていないことです。菅政権が狙っているのは、社会保障改革ではなく、消費税引き上げです。ところが、それを掲げてしまうと国民は納得してくれない。そこで徹頭徹尾、「社会保障」を前面に出しながら消費税引き上げ論を推し進めているということをしっかり押えておく必要があると思います。<o:p></o:p>

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【菅政権の政治的無力と大連立の大合唱・挫折】<o:p></o:p>

 参議院選挙の敗北、内閣改造後、菅政権はTPPと消費税を二つ掲げ、構造改革路線によりいっそう強く依存するようになりました。しかし、財界やマスコミが菅政権に全幅の信頼をおいたかといえば、そうではありませんでした。なぜなら菅政権が構造改革路線に傾けば傾くほど、支持率を低下させそれら課題を実行する政治力を喪失したからです。<o:p></o:p>

 もともとTPPは、地域の農家や地場産業、あるいは国民が反対するというだけではなく、支配層のなかの議員たちや、有力な利益誘導団体と言われてきた農協とか医師会も強く反対しています。そのため実現には、政権に対してよほど強い国民の支持があるか、国会の圧倒的多数が支持していることが必要です。ところが菅政権は、強い支持もないし国会でも参院では過半数すら確保できない状況です。

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 今年の正月に、「朝日」「読売」という大マスコミが、こぞって「大連立」の方向を打ち出した背景には、こうした菅政権のゆき詰まり、構造改革の路線を掲げながら構造改革路線が実現できないことにたいする、支配階級のいらだちと不満がありました。事態を突破するための唯一の方策として大連立が打ち出されたのです。<o:p></o:p>

 しかし、結果的に、311目前には、マスコミや財界のバックアップにもかかわらず、この大連立は実現できませんでした。まず、大連立の相手である自民党が、菅政権がこれだけ国民の不人気のもとでは、総選挙をやって自民党政権をつくったうえで自民党主導の大連立の方が手っ取り早いと考えたからです。また、民主党側でも菅直人首相が、自分か辞めるのがいやで、大連立をいやがった。これが3・11前に財界とマスコミが一致しながら、大連立ができなかった理由です。そこに大震災が襲ったのです。<o:p></o:p>


3・11以後の政治の変化と日本の進路をめぐる対決点5

2011-09-04 12:33:43 | 論文紹介

二、菅政権は3・11にいかに立ち向かおうとしたか<o:p></o:p>

  ――構造改革型復興構想、社会づくりの具体化<o:p></o:p>

それでは菅政権は、大震災、原発事故からの復興に、どんな対処の仕方をしたのでしょうか。菅政権は、構造改革の政治をやめ、新しい福祉の政治、地域で地場産業の再興をはかるような政治を展開するのではなく、逆に3・11の大震災をテコにして構造改革の政治を一気に強化する方向に進みました。<o:p></o:p>

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(1)構造改革政治をやめてもらいたいという期待をうけて登場した民主党政権とその変節<o:p></o:p>

 [保守の枠組みから逸脱した鳩山政権]<o:p></o:p>

 もともと二〇〇九年八月三〇日の総選挙で民主党が大勝し、政権交代が起こった背景には、構造改革の政治をやめてもらいたいという国民の強い期待と圧力があり、それが新しい民主党政権をつくりました。その期待を受けて登場した鳩山政権は、構造改革の政治をやめてもらいたいという期待に応え、不十分ながら、構造改革の政治をやめる第一歩を踏み出そうとし、あるいは日米同盟強化を見直すような方向を模索しました。

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 たとえば、構造改革の政治のもとでは、大企業の負担を軽減するために、小泉政権以来、福祉支出の削減が行われましたが、鳩山政権は、月々二万六〇〇〇円の子ども手当や高校授業料の無償化、農家の戸別所得保障など福祉型財政支出拡大のマニフェストの実現に乗り出しました。焦った財界の圧力にもかかわらず、当面、消費税も引き上げないなど、放っておけば構造改革の政治がとまりかねない勢いでした。

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 また、日米同盟の問題についても、テロ対策特措法にもとづく自衛隊のインド洋への派兵が打ち切られ、数十年のあいだ自民党政権がその存在を無視してきた密約の調査、公開がなされました。さらには普天間基地の県外・国外移設が打ち出される。アメリカも大きな危機感を感じるようになっていました。鳩山政権は動揺をくり返したうえ、政権を投げ出したのですが、財界のいらだちは頂点に達していました。<o:p></o:p>

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【構造改革・日米同盟回帰を掲げて登場した菅政権】<o:p></o:p>

 こうした財界とアメリカの危機感、いらだちをふまえ、民主党政権を再び元の構造改革の政治に戻すために登場したのが菅政権でした。菅政権は昨年七月の参議院選挙では、鳩山政権が掲げていた福祉支出の公約をあいまいにする代わりに、法人税の引き下げ、その税源としての消費税の引き上げを公約に掲げ、構造改革復帰を公然と打ち出したのです。

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 しかし、財界とアメリカが安心したのもつかの間、参議院選挙で菅民主党は、国民の、とくに構造改革政治をやめてもらいたいと願って民主党に期待をした「地方」の人々の離反を招き、大敗北します。ところが財界や、大企業本位の経済路線以外に日本の経済的な再建はあり得ないと確信する大手マスコミの強いバックアップのもとで、菅政権は政権を維持します。菅政権は構造改革復帰をさらに一段階引き上げた、新たな構造改革強化路線を展開することになりました。<o:p></o:p>

 その一つが、アメリカが参加を強要するTPP(環太平洋連携協定)への参加の唐突な打ち出しです。もう一つが、参議院選挙でノーと言われた消費税の引き上げの再提出です。とくに、この消費税の引き上げに菅政権は自分の政権の歴史的な使命をかけることになりました。

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 しかし、菅政権は、消費税の引き上げに対して参議院選挙で国民からノーの審判を受けています。そこで、その正当化の口実を変えざるを得ません。選挙前には、「財政の再建」、「ギリシアのようにならないため」に消費税の引き上げが必要と言っていたのを、選挙後は、高齢化のもとで社会保障費が増大するのは避けられず、その財源を確保するために消費税を引き上げなければならないと、「社会保障と税の一体改革」を打ち出していくことになりました。<o:p></o:p>


3・11以後の政治の変化と日本の進路をめぐる対決点4

2011-09-04 12:18:00 | 論文紹介

(2)原発事故はなぜ起こったのか<o:p></o:p>

 -1開発主義政治、構造改革政治の産物<o:p></o:p>

 「国策としての原発建設」              <o:p></o:p>

 原発事故がなぜおこったのかという問題はもっと深刻です。これも自民党の大企業本位の開発主義的な政治と構造改革の政治の合流による以外の何者でもありません。 

 原発については、原発に批判的な自然科学者の発言が、この間、有力に展開され、原発の安全性がいかに無視されたのかが明らかになっています。問題は、なぜ日本では原発の安全に関するさまざまな疑念が表明されていたにもかかわらず、それを一顧だにしないで、この狭い国土に54基もの原発建設がおこなわれたのかです。そのことを理解するためには、日本の原発建設が自民党の開発主義的な政治と構造改革の政治のもとでおこなわれたことをきちんと分析しなければなりません。いわば「原発の政治学」が必要です。

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 戦後日本の復興を支えた五〇年代の子不ルギー政策は、石炭と水力が中心でした。戦後復興は鉱山を開発し、ダムをつくることではじまりました。しかし、六〇年代に入ると、アメリカの圧力のもと、日本のエネルギー政策は、石炭・水力から石油中心へと大転換します。当時、アメリカ帝国主義の中東支配が確立するなかで、アメリカのメジャーズ=石油大企業は、中東地域に進出し、技術革新のもとで大量の石油が発掘されることになりました。この販売先を求めて、アメリカは日本に対する軍事的政治的な支配を利用し、石油エネルギーの導入を強要したのです。

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 日本の大企業も、「水よりも安い」石油を求めて、このエネルギー政策の転換に追随します。通例の国家の場合、エネルギー政策においてはバランスが重要視されますが、日本では輸入にしか頼れない石油エネルギーに全部変えてしまうという常識ではありえない政策が展開されました。1973年、高度成長のまっただなか日本のエネルギーの実に七八%が石油に依存し、その九九%が輸入という状態がつくられました。全国の各地で炭坑がつぶされ、また水力発電は100%稼動をしなくなり、一方で、開発主義的な政治のもとで、原油輸入のため大型のタンカーが入港できるように港湾がつくられ、そこにコンビナートが建設されました。<o:p></o:p>

 日本の大企業は、企業社会のもとでの過労死をするような労働力の活用と、水よりも安い石油をエネルギー源とするという、この二つの武器によって競争力を高め、高度成長を展開したのです。

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 その絶頂期の一九七三年に、オイルショックがおこり、中東戦争により石油輸入が途絶します。日本の保守支配層は、エネルギー政策の再転換を余儀なくされたのです。その結果が原子力発電所の建設でした。

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 すでに五〇年代に中曽根康弘らのイニシアチブではしまった原発開発は、六〇年代にはアメリカで開発されていた軽水炉を導入して本格的に建設するための基盤ができあがっていました。そして七三年のオイルショックを契機に、計画的で急速な原発導入と石油子不ルギーとの代替が推し進められ、年間二基の原発建設が実行されていくことになりました。大企業の競争力強化に特化したエネルギー政策をとるために、国策として、原発導入をおこなったのです。

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 もちろん安全を無視して原子力発電所をつくった東電の責任は免れませんが、同時にあるいはそれ以上に、大企業本位の経済体制をつくるために、国が上から、原発をつくらせて、さらに電力会社には「総括原価方式」という形で原発への転換のための財政的な保障をあたえる。この体制こそが日本国民の安全を完全に無視して原発が大量につくられていく異常をつくりだしたのです。<o:p></o:p>

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「地元は原発をなぜ受け入れたのか」<o:p></o:p>

 問題は、なぜ五四基もの原発が「地方」に導入され、容認されたのかです。ここでも自民党の利益誘導型政治、開発型政治が大きな要因として働いていました。

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 先ほどのべたように、日本の農業や地場産業が停滞し、困難をかかえる地方には、自民党政治が公共事業投資を注ぎ込んで雇用の拡大をはかりました。しかし、そうした恩恵にもあずかれない「僻地」もありました。企業誘致をするような場所でもなく、新幹線や高速道路を走らせることができないような過疎地です。そこに言わば「最後の公共事業投資」として原発導入が「推奨」されたわけです。青森の六ヶ所村にしても、福島県の第一、第二原発のある浜通り地方にしてもそうです。浜通り地方は、福島県民のなかで「福島のチベット」と呼ばれるような地域でした。

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 政府は、エネルギー政策を原発重視に転換した1974年、電源三法を制定します。この電源三法のもとで電源三法交付金を与える。原発を導入すれば、交付金が入り、固定資産税が入り、あるいは地方自治体独自に核燃税をとることかできる。こういう形で「僻地」の地方財政を潤しました。また、非正規ではあっても原発で雇用をうることができました。こうした交付金漬けの利益誘導政治のもとで以略が導入されていったのです。

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 ところが電源三法交付金は期限つきです。固定資産税も減価していきます。いったん原発を導入した地域は七、八年経つと、交付金がとまり、固定資産税収入も少なくなるのです。さらにはスリーマイル島やチェルノブ子リの事故で、原発の安全性というものが問題になると、新しく原発を導入する地域が出なくなるなかで、いったん原発を導入した地域で、もう一基、原発を導入することで財政を潤わせるという勧誘がなされる。すでに原発を導入した場所に第二号炉、第三号炉、第四号炉、第五号炉という形で原発がつくられることになりました。これが日本で五四基もの原発が、しかも特定の地域に集中的に導入されていった大きな原因です。

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 おまけに、大競争時代が始まり企業がコスト削減に血道を上げる構造改革時代に入ると、大企業は子不ルギーコストの削減圧力を電力会社にかけるようになります。電力会社としては、原発の安全基準の引き上げに伴うコスト増をおさえるしかなくなる。ここで、さらなる安全無視が行われたのです。


3・11以後の政治の変化と日本の進路をめぐる対決点3

2011-08-31 11:12:36 | 論文紹介

【地方構造改革の推進】

 ところが、九〇年代に入り、経済のグローバリゼーション、大企業の世界的な競争がはじまるもとで、地方も構造改革の嵐のなかに巻き込まれるようになりました。構造改革は、大企業の競争力を拡大するために、一方では、大企業労働者のリストラ‘非正規化を過酷におしすすめ、他方、大企業の負担を軽くするために財政の削減に乗りだします。

 

構造改革は、財政支出の大宗であった社会保障支出と公共事業投資の削減にふみきりました。小泉政権の下で、地方に対する補助金、交付税交付金の削減を過酷におしすすめる「三位一体の改革」が強行されました。地方に対する公共事業投資が削減されると、地場産業や農業の崩壊に加え、雇用が縮小し地方経済の衰退が加速しました。

 

 また、補助金や交付税交付金が削減されたために地方財政危機が進み、医療や福祉、介護の削減、さらに重要なことに公務員のリストラがはじまりました。赤字の公立病院が統廃合され、正規職員がリストラされて、非正規に置き換えられていきました。また、構造改革のなかでの地方財政の削減と並行して、市町村合併が推し進められ、公務員のリストラをはじめ公務部門の削減が強行されました。そうしたもとで、市町村の事務が大きく停滞し破綻に直面していたのです。

 

 このように、東北地方では、構造改革の過酷な実行の結果、大震災の以前に地場産業が衰退を余儀なくされ、医療が崩壊し、福祉・介護の危機が進行していたのです。そこに大震災がおこった。

 

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震災復興でも構造改革が足楢に】<o:p></o:p>

 構造改革が大震災の被害を、きわめて深刻にし、その再建を遅らせる大きな原因になりました。だからこそ、その復興の方向は、こうした構造改革をやめ、公務部門と福祉、医療提供体制を再建しなければいけなかったわけです。市町村合併をもう一回再検討しなおして、旧市町村単位の地域を再興することが求められています。

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にもかかわらず菅政権は、震災復興に際しても、構造改革時代と同じように国の財政出勤を拒み、地方財政危機に苦しむ市町村・地方自治体に復興を丸投げしました。阪神淡路大震災のときのような大規模な公共事業投資型の復興――自民党開発型復興すら、消費税を引き上げる保障ができないもとでは安易に財政出動すべきでないという財界の圧力の下でなかなか進んでいません。

 

 そのため、震災前から地方財政危機に陥っている県や市町村は「がれき」の処理一つをとってみても、やらなければいけないことはわかっていても、国からの財政保障がないもとで遅れている。仮設住宅や復興住宅も、災害救助法や公営住宅法にもとづいておこなう地方自治体の負担分の手当てができないため建設が遅れる。こうして、地方構造改革で被害を深刻化させた東北の人々の困難と復興の遅れをさらに拡大しているのです。


3・11以後の政治の変化と日本の進路をめぐる対決点2

2011-08-30 18:02:23 | 論文紹介

一、    東日本大震災、原発事故はなぜ起こり、かくも深刻化したのか?

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(1)大震災の被害はなぜここまで大きくなつたのか・・・利益誘導型政治と地方構造改革の合併症<o:p></o:p>

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[開発政治による地方の停滞と対策]<o:p></o:p>

大震災そのものは、明らかに1000年に一度の天災という側面があります。しかし、ここまで被害が大きくなり、五ヵ月たっても復興がすすまない背景には、数十年続いた自民党の利益誘導型政治とそれを右から改変した地方の構造改革の合併症があります。

 

 もともと高度成長期以降、東北地方をはじめとする「地方」における農業や地場産業は、大企業本位の高度成長政治のなかで、停滞と困難を余儀なくされました。しかし、一方で、地方は自民党の有力な支持基盤でもありました。自民党にとっては、自分たちの政治の支持基盤である地方をないがしろにすれば、政権自体がもたなくなります。そこで、高度成長の下で増大した税収を、福祉ではなく、公共事業投資として地方に投入し、支持基盤の安定化をはかりました。

 

 その方策は大きく言って二つありました。一つは、自民党の開発型の政治―-大企業の誘致、コンビナート建設の資金が地方に大量に投入されたことです。全国一五地域が新産業都市に指定され(一丸六二年)、道路や鉄道、港湾建設にお金がつぎ込まれました。そして、そこに大企業を誘致し、農業や地場産業の停滞で苦しんでいる地方の雇用を拡大する。もう一つは、そういう大企業を誘致できない地域に対して、新幹線や高速道路など公共事業投資によって雇用をつくりだしたことです。

 

冬場、出稼ぎに行かなければならないような東北地方や新潟県に、高速道路や新幹線建設事業を誘致することで、雇用を拡大し、出稼ぎに行かなくてもいい生活を保障することと引き換えに、自民党政治を支持させるという形で地方の支配をおこなってきたのです。

 

 この時期の日本では、不況期に大企業が、非正規労働者を首切っても、その人たちが地方に帰り公共事業に雇用されることで、貧困や失業も隠蔽されました。地方は、こういう形でも日本の社会の「安定」を支えたのです。