補足~4
『解體新書』~4
関わった人物~1
前野良沢は翻訳作業の中心であったが、
著者としての名は『解体新書』に無い。
一説には、良沢が長崎留学の途中で
天満宮に学業成就を祈ったとき、
自分の名前を上げるために勉学するのではない
と約束したので名前を出すのを断ったという。
一説には、訳文が完全なものでないことを
知っていたので、学究肌の良沢は
名前を出すことを潔しとしなかったのだという。
杉田玄白は
「私は多病であり年もとっている。
いつ死ぬかわからない」と言って、
訳文に不完全なところがあることは知りながら
刊行を急いだ。
(『解体約図』の出版も玄白の意図であり、
これに対して良沢は不快を示していたと言われている)
しかし彼は、当時としては非常な長命の
85歳まで生きた。
古美術 崎陽
長崎の歴史
『解體新書』~4
関わった人物~1
前野良沢は翻訳作業の中心であったが、
著者としての名は『解体新書』に無い。
一説には、良沢が長崎留学の途中で
天満宮に学業成就を祈ったとき、
自分の名前を上げるために勉学するのではない
と約束したので名前を出すのを断ったという。
一説には、訳文が完全なものでないことを
知っていたので、学究肌の良沢は
名前を出すことを潔しとしなかったのだという。
杉田玄白は
「私は多病であり年もとっている。
いつ死ぬかわからない」と言って、
訳文に不完全なところがあることは知りながら
刊行を急いだ。
(『解体約図』の出版も玄白の意図であり、
これに対して良沢は不快を示していたと言われている)
しかし彼は、当時としては非常な長命の
85歳まで生きた。
古美術 崎陽
長崎の歴史