ある人から俳句が来て見てほしいという。
糸屑のつきたる汗の菜っ葉服
風灼ける鎖の錆のぼろと落つ
風灼ける鎖の錆のぼろと落つ
見ているところはそう悪くないが、切れがないというか、感動がストレートに胸に飛びこんでこない。
両句とも○○の☓☓の……というふうに「の」をむやみに使って続ける。つまり園児が先生に逐一報告する形であり、たどたどしい散文の切れ端である。伝えたいことはすべて入れました、わかってくださいというやつで、ぼくは片言英語と貶している。
糸屑も汗じみてをり菜っ葉服
風死して鎖の錆のぼろと落つ
風死して鎖の錆のぼろと落つ
とでもしてみるか。「風灼ける」がムード過多であるし上五で動詞終止形で置かれるとえらく不安定である。ここが「蟬時雨」という名詞だとかなり韻文の感じになる。「ぼろと落つ鎖の錆や」とカチッとしたフレーズにして「の」を取ることを考えていい。
とにかく散文の切れ端をやめて韻文化を意識すること。
別の句会で以下の句が出た。
川の字に昼寝の世代並んでる
むろん点が入らなかった。この句は肝心の中七が抽象的で見えない。
「川の字に父われ息子三尺寝」。三世代を具体的に言えばぐっとリアリティが出るだろう。
心太すする親子の似てる声
この句も散文的と思うのは、季語に言葉を足しているせい。「すする」はまるで不要。
「父の子の似通ふ声や心太」とでもしてみるか。親子というより父と子のほうが見えるだろう。
飯島晴子は俳句に関する優れた随筆をたくさん書いている。
その一つに「言葉桐の花は」がある。「言葉桐の花」と「実際の桐の花」は俳句の中では違わなければいけないのに、二つはぴったりくっついていると思っている人が多い。
「言葉桐の花」と「実際の桐の花」の間には、飛び越せぬ深い闇があると認識している人でないと写生はできない、という内容である。
言葉と実物があまりに狎れあ合ってしまってすべてが散文化した。
これは言葉と実物の間が地続きで歩いて渡れるということである。けれど歩いて渡れる意識で言葉を使っていては俳句の写生とはならない。
実物の桐の花と言葉の桐の花との間には何もあってはならぬ。
写生とは両者の間に割り込んで来ようとするものを必死に退けることである。これが写生であり俳句をものすことである。
このように飯島晴子は味わい深い写生論を述べている。
来月8月11日のひこばえ句会(田無公民館)では、飯島晴子の写生論をぼくなりに噛み砕いて解説する予定。
撮影地:宗像市釣川河口付近
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