天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

大阪大学の試験ミスに思う

2018-01-14 10:06:51 | 世相


大阪大学の2017年の試験において物理の問題二つに正解のミスがあって問題になっている。
受験生の運命を変えてしまった不祥事であるがそれを横において、作った担当者が集まってそうとう考えても間違いが見抜けなかったことをおもしろく感じた。

問題のひとつは、正解が一つという主宰者の思い込みに反して正解がなお二つ存在した。
問題のもう一つは、3.3×10の2乗(m/s)とした正解は実は誤り。「数値設定の不整合で成立せず」が正解となった。
物理はまるで不案内であるが「成立せず」は問題のていを成していなかったということになりはしないか。つまり数式を導き出す前提の条件があいまいであったということであり、こちらのミスは前者よりもっとおそまつである。

<問題を出す方が試されている>ということを実感した事件でありそれがおもしろかった。また、間違いを指摘したのが予備校の物理の講師であったというのは予備校のレベルの高さと彼らの闘争心を感じてうきうきした。

この事件を取り上げた1月12日の讀賣新聞は、さらに「思考力問題さらに複雑」というコラム記事を掲げている。
その内容は、2020年からの大学入試共通試験では思考力や表現力、記述式の問題が多く導入される。「河合塾」の担当者は「思考力を測る問題は構造が複雑で作成が難しい。複数の担当者による点検や採点が欠かせない」としている、など。

ぼくが受験生であった昔から○×式でない記述式試験を取り入れるべきという意見はあった。要するに思考力を問う試験である。
けれど思考力などという抽象的なものを試験できるのであろうか。
たとえば400字の何かを書く。採点者はそれを読むのだが、さて、何をどう判定するのか。判定は数値化するのか。序列をつけるのなら数値化はやむを得ぬが、では思考の中身は数値化できるものなのか、という根源的な問題にぶつかりはしないか。
思考力を問う問題の採点はつまるところ試験採点者の好悪(主観)ということになるだろう。数値化できないこととリンクして普遍性を欠くことになる。
そもそも考えることは普遍性など飛び越えて想像力の跋扈する領域であり採点なんか関係ない世界である。

具体的に思考力等がいちばん試験されているのは、文学の受賞過程ではなかろうか。芥川賞、直木賞、本屋大賞……などなどの選考は試験のようなものである。もっと小規模では詩、俳句、短歌の賞を与えるプロセスも。
しかし、文学で賞を出すプロセスを試験とは呼ばない。

思考力問題が複雑化してゆくと文学の賞の選考みたいになってゆく。試験の範疇から逸脱していきそう。面倒がどんどん増えてゆく。
<問題を出す方が試されている>という事態が進行すれば問題を出せなくなることも大いに考えられる。
ぼくは思考力問題などに試験が向かってゆくのは不毛だと思う。

<試験はおおざっぱにうわべの教養を測るものである>という認識でいいのではないか。それが嫌な人が大勢いて小説を書き、絵を描き、音楽を奏で、踊りを踊る。ほかに試験で測ることのできない世界で羽ばたく。
それが試験が生み出すカウンター文化であると思っている。

物理に正解が一つでなかったということはおもしろかった。文学に似ていて物理をやってみたくなる。
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