井の頭池の水源(泉ないし噴井)
6月24日付讀賣新聞の俳壇。正木ゆう子選第2席の句に注目した。
こんなに小さなむらさき五弁草を引く 稲垣みち子
【正木ゆう子評】はて。この草は何だろう。作者も名前を知らない。知らないなら知らないで、立派に句にすることができる、ということがわかる句。
正木さんの選と選評がいい。
草や花はいまごろ旺盛に繁茂している。知っているものより知らないものが圧倒的に多い。小生は花を写真に撮ってブログによく載せるが名前がわからないことが多い。いい加減に名を載せて加藤さんはじめ物知りの読者に間違いを正される。
正しい名前を知るのはいいことだがそれがべらぼうに長い名前だとはなから句にすることは諦める。そんなわけだから稲垣さんの「こんなに小さなむらさき五弁」という素直さに感心した。見たままを脚色せず言葉にして句をなした。
書いた人もそれを採った人も素晴らしい。
小生は菊科の細い花弁がたくさん放射状に出る花を見るたびに句にできないかと考えて果たせないでいる。このような句を見ると、そうだ、この直接性と素直さでいいのかと諭された気がする。
讀賣俳壇で小澤實選にすごくお世話になっている。小澤さんの即物主義が小生の行き方と合うと感じて彼への投句が圧倒的に多いのだが、正木さんの選のいい意味のばらつき、多種多様な何が飛び出すかわからないところにも魅力を感じている。
自作で恐縮であるが次のような句。
一つシャワー奪ひ合ひつつ愛し合ふ わたる 2019年8月19日
【正木ゆう子評】シャワーを一緒に浴びている二人。お湯を分け合うのではなく「奪ひ合う」としたことで。若さが際立ち生き生きした健やかな句に。
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これが採られるとは思わなかった。海水浴場のシャワーで空きを待っていて二人一緒に浴びればいいじゃないかと思ったとき二人が男女ならまさに濡れ場だと思った。するとこういう言葉が出た。
春愁や一円玉が水に浮き わたる 2018年4月30日
【正木ゆう子評】曖昧模糊とした季語と、目に見えるモノとの取り合わせ。一円玉の円形や軽さが生きている。念のために試してみた。乾いた一円玉を、そっと水面に載せると、浮く。
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このとき書く題材に窮していた。ふと一円玉が水に浮いたことを思い出した。付ける季語は「春愁」しかない。意味で通じないのがいいと感じ投句できるレベルにあると思った。
滝壺で顔を洗つて出直すか わたる 2018年6月18日
【正木ゆう子評】「顔を洗って出直して来い」とはよく聞く言葉だが、さて何処で洗うか。そこに滝壺が出てくるとは。最上級の覚醒得られそう。
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御岳山の奥の綾広の滝である。滝から先へ道はあるが最初から引き返す予定であった。そのとき出直すというイメージが降ってきた。「顔を洗って出直す」という手垢のついた言い回しがいけるのでないかと思いできた。できた瞬間この句は正木さん向きだと判断した。
正木さんは突拍子のない句、破天荒な句を採る。
小生はこんな句できちゃったというようなとき正木さんにその句を見せることが多い。
思いつきでできてしまうときである。
藤田湘子は嫌な句に対して「思いつきで書きゃあがって」とよく言った。けれど思いつき以外なんで書くのかといつも反感を持った。たぶん湘子は、その思いつきのレベルの低さを言ったのだろう。
俳句は出たとこ勝負である。曲がり角で出合い頭に衝突するようなものである。
正木さんは<出合い頭の衝突>の選をして見せてくれる。それは作句のスパイスになっている。
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