天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

湘子『黑』 8月中旬を読む

2024-08-19 04:54:36 | 俳句
高幡不動駅(多摩モノレール)



藤田湘子が61歳のとき(1987年)上梓した第8句集『黑』。荒行「一日十句」を継続していた時期であり発表句にすべて日にちが記されている。それをよすがに湘子の8月中旬の作品を鑑賞する。

8月11日
朝顔におしろいつ気もなき子かな
「おしろいつ気もなき子」は女子か。化粧してもいいいうことで小中学生ではなさそう。子の年齢を推察できるのが巧い。
雨脚のうしろの日射し盆が来る
そんなに強くない夕立か。天気雨という感じもする。雨の日射しで豊かな気分の盆の前である。湘子は「うしろ」への思いが深く、「秋風のうしろへまはれしじみ蝶」もある。

8月12日
野面いま秩父生れの雷あそぶ
雷は秩父の山からやって来て里で轟いている。「野面いま」なる導入は素人のできないところでありここからして味わい深い。
銭湯の出入りも盆の休み前
賑やかなのだろう。銭湯と盆と本質的び引き合うことを心得えている。

8月13日
木の肌の人より暑し盆の道
変な句である。木の肌が人より暑いのは当然ではないか。直射日光を浴びていたのであろう。
急流に顎つき出して避暑名残
作者自身のこととして読んだ。急流を眺めるくらいなら格段どうということはない。「顎つき出して」と踏み込んだことでがぜんおもしろくなった。一句の山場をつくることに長けている。

8月14日
青柿の下や満腹して通る
青柿は食えない。別のもので満腹になって通るということでそのギャップから来る諧謔を楽しみたい。
避暑もはや家鴨の嘴(はし)のうすき褪せ
細かいところを見ている。「うすき褪せ」と言われて、さて、家鴨の嘴はどんな色だったか考える。黄色っぽかったか。

8月15日
秋草や円熟といふ淡きもの
秋草などに円熟なる概念を持ち込んだのが異色。たしかに草も円熟があるといえばある。枯れてゆく色である。悪くいえば皮肉、よく言えば諦念を意識した内容。

8月16日
芋蟲のころりと落ちし地の旱
「芋蟲のころりと落ちし」は見たまま。しまいに置いた「地の旱」が光る。それまでが「序破」であるならしまいが「急」。一句の呼吸を意識している。
山風に堪へかねて落つ夜蟬かな
本当のことを言うと「落つ」でなく「落つる」として夜蟬に流したいところ。恩赦みたいな感じでここが終止形でも俳句の世界では許される。それはともかく、吹き下ろす風を見たのがいい。

8月17日
冷房のものに歯が泛き地蔵盆
8月24日、地蔵様の縁日に地蔵を祀る。盆の最終日と考えられている。「冷房のものに歯が泛き」は身につまされるおもしろさ。
電気みな点き草相撲はじまれり
どこで素人の相撲大会があったのか。土俵をぐるりと裸電球が囲んでいる感じ。臨場感あり。

8月18日
青空は高きへ去りし芒かな
秋晴のように透き通った空気を思う。「青空は高きへ去りし」は湘子ならではの美意識。
ひと粒の星をもらひて初ちちろ
コオロギが鳴くのを初めて聞いた。「ひと粒の星をもらひて」は金星の出る夕方ということか。奇抜な表現である。

8月19日
年寄れば秋茄子の尻皆可愛
「年寄れば」は収穫されないで長く畑にあるということか。「皆可愛」は思い切った言い方。
妙齢の脛なぶらせてねこじやらし
若い女性はショートパンツかスカートか。脚に猫じゃらしがまつわっている。痒いだろう。「脛なぶらせて」が味噌。
けさ秋の踵外せし畔の土
田んぼの畔を歩いていて踏み外した。夏を経た畔はもろくなっている。ここで立秋の句を作る眼力は並ではない。

8月20日
初秋の何をもとむる草の色
8月15日に「秋草や円熟といふ淡きもの」と書いている。秋の草にそうとう関心を寄せている。このような草への関心があるのか。作者がしかといる句である。
あんたがたどこさ肥後さと秋の土
童謡の一節も句になる。「あんたがたどこさ肥後と」で子供たちの遊びを見せて、土を謳歌する。ずば抜けた技量。
移り気のつまりは柘榴割りにけり
作者自身のことか。柘榴を仰いだ。一つ採った。そのとき食う気はなかった。いじっているうちに割った。柘榴にまつわる一人の男がクリアに描けている。



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