天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

大技と大誤審

2015-11-15 10:59:21 | 格闘技


きのうの大相撲九州場所で白鵬の大技「やぐら投げ」に目をみはった。次の瞬間、行司式守伊之助が上げた軍配の方向に唖然とした。
だって遠くからみていても足が土俵に残っており、白鵬の体はきれいに回転して隠岐の海の上になって落ちているではないか…。
解説の中村親方(元琴錦)は、そうなるように土俵際へ誘った感じで白鵬には余裕があったと見たが、ぼくもそう感じた。そうでないと、ああはきれいに決まらない。
軍配は情けなかった。当然、物言いになって、あっさり差し違いとなった。
式守伊之助は処遇を聞きに行ききっと謹慎させられるだろうと思ったら、今日の新聞はやはり出場停止処分を伝えている。
まあしかたない。
パリで起きた惨劇に比べれば軍配がどっちへ行こうとたいしたことではない。


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小川軽舟の俳句日記

2015-11-15 10:22:35 | 俳句


小川軽舟の俳句日記『掌をかざす』(ふらんす堂/2015)、本体価格2200円。
思ったよりずっと読みごたえがあった。俳句にちょっとした文章が添えられているという形式がいいのである。
句集というのは俳句ばかりがだらだらと続き、どこを開いても1ページに2句ないし3句の俳句があるばかり。
俳句を否定するのではないが散文が俳句を大いに楽しくする、それは否定しがたい事実であろう。
主宰の小分は何気なく見えて刺さってくるものが多々ある。

特に散文が気に入ったものをいくつか紹介しつつ小生の感慨を記してみたい。

一月二十二日(水)
私は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』までは村上春樹の熱心な読者だった。
それにしても咋秋出た『恋しくて』に入っている「恋するザムザ」はなんなのでしょう。世界の村上春樹になったからって読者をなめていないか。
恋の道千鳥の鳴くにまかせたり

軽舟さんがかように激しく人を罵ることにびっくりした。「恋するザムザ」を逆に読んでみたくなった。

二月十七日(月)
怒ることが不得手である。
怒らないわけではない。怒るべき出来事に対して即座に感情が沸騰しないのだ。あとになってあれは怒るべきだったと思いじわじわ腹が立つ。そのときはもう相手は目の前にいない。
タイミングよく怒る人を見ると気持ちよさそうでうらやましい。
まんさくや突き上げてくる沢の音

これは最高傑作。まさに軽舟さんのお人柄を表している。こんなこと書ける人はほかにはインドのガンジーさんくらいしかいないのでは。


三月十六日(日)
新宿のカルチャーセンターで公開講座。「俳句で家族を詠む」と題して話す。
準備をしていて気付いたこと。妻を詠んだ数多の名句に比肩できる夫の名句はない。特に夫が生きているうちはだめである。
男は妻を詠むと自分が出る。女は夫を離れてこそ自分が出る。どうもそういうことらしい。
陽炎を横切れる妻揺らめきぬ

これぞ発見。さすがは鷹主宰の男女に関する卓越した見識。


四月二十一日(月)
いつだったか酒の席で「鷹」の仲間からあなたはこれまで浮いた噂一つなくて立派だと褒められた。
なぜかあまり褒められたような気がしなかった。
石鹸玉浮いた噂もなかりけり

いまの奥さんと結婚してからは浮いた噂はないでしょう。ただし今の奥さんを得るプロセスに関する噂は仄聞しております。


五月九日(金)
結婚式以来結婚指輪をしたことがない。
そういえば妻がしているところも見ない。
二十年の歳月を感じさせない初々しさだ、指輪は。
教会いそぐ人妻麦の秋

いちおう指輪はあるのですね。ぼくのところははじめから指輪がありません。なくても結婚は持つものですね。


六月二十一日(土)
私はしゃべることに無精で、放っておかれればいくらでも黙っていられる。その私が「鷹」の中央例会では二時間以上しゃべり続けられるのだから人間鍛えようである。
中央例会が終わると向こう一ヶ月はしゃべった気がする。
義理はたす夏至の夕日はぢりぢりと

二月十七日が天でこれが地。これも主宰のひととなりを端的に表すみごとな小分の冴え。武田信玄の「風林火山」を感じる。


七月十六日(水)
社員食堂で昼食をとった後、自分の席で二十分ほど眠るのが私の毎日の習慣である。ここで熟睡すると午後の仕事が捗る。
妻の証言では私は夜しばしばいびきをかく。昼休みの二十分に何が起きているかは誰も何も言ってくれない。
鳴つてゐり電話が見えて昼寝覚

巧まざるユーモア感覚がいい。


八月十九日(火)
お新香に醤油をかけたり、マカロニサラダにソースをかけたりするのは、あまり褒められたことではないと思うようにはなった。
しかし悲しいかな、お新香には醤油をかけ、マカロニサラダにはソースをかけたほうが、食欲が湧き、ごはんが進む。
仏壇にポテトサラダや秋の影

主宰とは俳句の話はしても下世話な話を慎んできたがこれを読むとなんでも話せそうな気分。


九月七日(日)
ニトリで買った本棚が届いた。
「また本棚?」と妻は顔を曇らせる。
いつもこれが最後だと思いはする。単身赴任をやめても本棚と一緒に戻れる場所はないのだ。
待宵の書架に遥けき時間あり

不満の妻を一行に濃厚に書いた技が光る。


十月十日(金)
「社会の窓が開いている」という言い方は今も生きているのだろうか。
私が子どもの頃は使われていたが、NHKのラジオ番組「社会の窓」に由来するとは知らなかった。生まれる前の番組だから無理もない。
ズボンのチャックの開いた人を見たら、今なら何と言ってあげたらいいのだろう。
窓の数囚人の数小鳥来る

この素材を扱って俗に落ちないところが主宰の真骨頂。


十一月十六日(日)
短歌日記の横山さんのように書道の心得のない私にとって、色紙や短冊を書くのは難行である。
墨だけは藤田湘子の遺品の青墨を磨り、あとは「書は人柄なり」と唱えてやっつける。それでも「鷹」の仲間から上手くなったと言われるのは、よほど以前が情けなかったのだ。
形見の墨磨れば香りぬ返り花



「書は人柄なり」の作品

十一月二十四日(月)
振替休日。妻と映画を見に行く。
角田光代原作、吉田大八監督、宮沢りえ主演の「紙の月」。銀行で契約社員として働く平凡な主婦の巨額横領事件を描く。
私の妻は四年間だけ銀行で経理をしたが、悪い誘惑を知らぬうちに寿退社した。
ОL四年主婦二十年葱刻む

妻を書いた中でこれがぴか一。「悪い誘惑を知らぬうちに寿退社した」などと他人事のように書きながら、<ぼくと結婚して幸せになったでしょう>と言外に托す。大笑いした。


十二月二十八日(日)
毎日歩く見慣れた町に、ある日ぽっかりと更地ができる。しかし、そこに何があったのかどうしても思い出せない。
私たちの記憶とはそのようなものだ。そして、俳句はそこに何があったかを思い出させてくれる言葉なのだと思う。
伐つて無き樹を見上げたり冬の雲

何で俳句をやるの」と問われたときこのようなことを即座に言いたい。簡単に書いているがここにいたるまでどのくらい考えてきたのだろうか。湘子もここまで簡潔に俳句を述べたことはなかったように思う。
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