天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

年を取ってわかる句

2015-11-20 15:18:03 | 俳句


紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女


俳句をはじめたころこの句は評価できなかった。どのようによくて世評が高いのかわからなかった。
初心のころは師匠や先輩方から「季語は一句に一つ」と教えられていたこともあってなんで秋の寒さを感じるころ紫陽花が出てくるのかわからなかった。

ところが10年ほど前から久女の観察眼にえらくひかれはじめた。
紫陽花という花はしぶとい。
毬のような花の形が崩れないでしっかり茎についていて風雨に耐えて冬に入る。
山茶花はちりじりに散って土に紛れるし、椿はかくんと首が落ちるように果てる。
紫陽花は赤みをのこしたまま秋を迎えるものもあるし、まだ緑のままのもある。

久女のこの句は自然は折り重なって進んでいる、ということを教えてくれる。
春になっても落葉はうず高くあるわけだし夏になってもそれは腐らないで林の中に存在する。
久女は山国へ行ったもの珍しさから見たまま書いたのであろうが紫陽花と秋冷のかかわりは絶妙である。コロンブスの卵といった感興である。
紫陽花という花の本質と秋冷という季題の本意とがこれ以上なく引きあっている。
舞台はどこでもいいようでいて「信濃かな」は「秩父かな」よりも音感が冴える。
俳句の先生方がおっしゃるように季重なりはテーマが拡散してむつかしいのであるが季重なりが決まることもある。
季重なりが決まったとき一句は、ハリウッドの美男美女スターの結婚が長続きしているかのような不思議な光彩に包まれる。
コメント
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