サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 11535「聖家族~大和路」★☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2011年08月25日 | 座布団シネマ:さ行

絵が描けず、自暴自棄に陥った画家の男が、さまざまな女性たちと出会い、人生を再スタートさせていく姿を描く人間ドラマ。昭和の文豪・堀辰雄の代表作「聖家族」と紀行文「大和路」を原作に、理想とする家族像や恋愛スタイルと現実のギャップに悩む男の心情を描く。画家の主人公を、お笑いコンビ、ラーメンズの片桐仁が好演する。奈良平城遷都1300年記念事業と位置付け、数々の歴史建造物や仏像が登場する美しい映像も見逃せない。[もっと詳しく]

「新ブンガク」だとほざくこの笑止千万な男は、シカトするしかないか。

久しぶりに「開いた口が塞がらない」という作品に遭遇してしまった。
通常であれば、ただでさえ高血圧体質に響くので、忘れてしまうように努めるのだが、今回は思い出したくもないシーンを思い起こしながら、「罵倒」することにした。
夫婦喧嘩でもなんでもいいが、犬も食わないような「罵倒」には実のところ体力がいるのだ。
別に「罵倒」したからっていって、こちらになんの得があるわけではない。
政局を「罵倒」するのであれば、まあ赤提灯で隣り合わせの親父と酒を酌み交わしながら「あの馬鹿野郎が・・・」とくだを巻いていれば、酒の一杯もおごってもらえるかもしれない。



けれど、『聖家族~大和路』なんていう映画を、見たと言う「不幸」な人など、僕の周りにはそうそういるわけがない。
いるとしたら、もしかしたら「関係者」かなんかで、僕は逆恨みを受ける可能性だってある。
このblogだって、奇特な御仁が毎日数百人は覗いてくれているようだが、まあこの映画を見ている人など、そのなかには十人もいないのではないか。
だからお互いに、「交通事故とでも思いましょうや」と慰めあいをするわけにもいかない。



監督・宣伝・配給・製作総指揮として仰々しく並べ立てているのは秋原正俊という男である。
配給はデジタルカイエ系となっているが、どうもこの会社は最低人数の映画作りを標榜しているらしく(それはそれで悪いことではないが)、その親玉格が秋原らしい。
秋原はテレビの世界でも「世界初のインタラクティブドラマ」と称して田口トモロオ主演の『ゲーム・ザ・ヘブン』など番組プロデューサーを何本か手掛けた後に、博報堂電脳体に所属している。
ここは、インターネット時代の「博報堂」を模索する部隊であり、「みんなが幸せになる電脳広告」とかなんとかしゃらくさいことを言ってるが、まあ知り合いも居るのでこれ以上は触れない(笑)。



秋原はここでネットドラマに挑戦している。
現在の「携帯ドラマ」みたいなものだろうが、ろくなものではない。
そのあたりの広告代理店のプロデューサーぐらいにしておけばよかったものを、誰が調子付かせたのか知らないが、04年ぐらいから劇場映画の監督に進出してきたのだ。
そして驚くなかれ、そこから現在までに20本余りの劇場作品を「監督」あるいは「宣伝・配給・製作総指揮」をやっているのだ。
なんだか、プログラムピクチャー時代の、日本監督たちを思い浮かべてしまう。あるいは一時期の日活ロマンポルノを主戦場とした個性的な監督たちを思い浮かべてしまう。
しかしもちろんのことであるが、そこで悪戦苦闘した多くの無名監督のような、「上等」なものではない。
そしてその基軸となっているのが、秋原いわく「新感覚ブンガク映画」であり、『聖家族~大和路』はその第11弾に当たっているのだ。



宮沢賢治や太宰治や小泉八雲や芥川龍之介と同じく、「新ブンガク」とやらで哀しくも料理されたのが、堀辰雄の「聖家族」や「大和路」といった掌編である。
堀辰雄というと「軽井沢」の「結核小説」のようなイメージがあるが、立原道造、中村真一郎、福永武彦といった、ある時期僕も読みふけった作家の師匠筋にあたる。
「聖家族」というのはもちろんラファエロのもっとも有名な絵画のタイトルからとられており、原作同様、九鬼という師匠の死があって、弟子に当たる河野扁理と、九鬼の内縁の妻とその娘、そして扁理の前に現れる踊り子が主要な登場人物となっている。
「大和路」は堀辰雄の紀行随筆のようなものである。
大学時代に大阪にいた僕は、十八歳の秋にこの「大和路」の一章で、秋篠寺とそこにすくっと優雅に立っておられる「技芸天」のことを知り、すぐに田舎風のたたずまいの素朴な寺を訪れ、それからことあるごとに通う僕のもっとも好きな「大和路」の寺となったのだった。
そして主役には、たぶん美大を出ていることとほとんど出演料もかからなかったのかどうか知らないが、ラーメンズの片桐仁が起用されている。
未亡人になつかしの堀ちえみが出ているが、絹子役の岩田さゆりも踊り子沙羅役の末永遥も、僕は知らない。



この作品は奈良平城遷都1300年記念事業に位置づけられているらしい。
笑止千万である。
別に現代風の味付けがされていることなどどうでもいい。
脚本も、演出も、音楽も、カメラ移動も、すべてが映画をなめきっているとしか思えない。
秋原にとっての「新ブンガク」とはいったいなんなのか?
こういう男が、それみよがしに、「映画」の現在をになおうとしているのだとしたら、僕たちはこの情けなさをどこにぶつけたらいいのだろうか。



たいして予算もなく、同じような刺激と欲望を消費させるものでしかないようなVシネマのシリーズの方が、そこに出演しているスタッフや役者の魂のようなものが、百万倍も伝わってくると言ってもいい。
もしかしたらなけなしの予算でつくられた学生のショートフィルムの方に、完成度はともあれとしてまだなにかしら希望を持たされたりもする。
別に、博報堂電脳体にケチをつけているわけではない。
片桐仁だって、その不器用な立ち位置を、テレビのバラエティで見ている分には、結構好意的だ。
問題なのは、こういう作品を平安遷都1300年記念事業にエントリーした関係者と、「数々の歴史建造物や仏像が登場する美しい映像も見逃せない」などと平気で紹介してしまう関係者である。
そして、秋原のような、たぶん「大和路」にも「原作者」にも「映画」そのものにもなめてかかっているような男と、どこかで出くわすとしたら、僕は殴りつけたくなるかもしれない。
ため息をつきながら、もうとっくに堀辰雄の本は処分してしまっていたので、僕はインターネットの「青空文庫」でもう一度原文を読み返してその香気に触れながら、自分を慰めるのだった。





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