中村昌枝さん死去、80歳=東京五輪金、「東洋の魔女」主将
時事通信 10月3日(木)12時26分配信
1964年東京五輪の女子バレーボールで金メダルを獲得し、「東洋の魔女」と呼ばれた全日本チームの主将、中村昌枝(なかむら・まさえ、旧姓河西=かさい)さんが3日午前0時30分、脳出血のため、都内の病院で死去した。80歳だった。葬儀は近親者のみで行う。
山梨県南湖村(現南アルプス市)出身。中学でバレーを始め、山梨・巨摩高から52年、日紡足利工場に就職。ニチボー貝塚バレー部創設に伴って異動し、大松博文監督の猛練習に耐えて選手たちをまとめた。
6人制移行後の62年世界選手権(モスクワ)で優勝。東京五輪ではコーチ兼主将として出場し、決勝でソ連を破って金メダルを獲得した。
65年の引退後はママさんバレーなどの指導普及に尽力。2004年アテネ五輪の際は、日本協会の女子強化委員長に就き、08年世界バレー殿堂入り。
「東洋の魔女」といわれ、東京オリンピックで大松監督の下、そしてもちろん(旧姓)河西昌枝主将の下、金メダルをとった全日本。
しかしながら、当時の女子バレーでいえば、全日本選抜チームがつくられ強化されということではなく、ほとんど単独チームに近かった。
それが「日紡貝塚」である。
もともとは戦前から日本の産業の主力のひとつは紡績産業であり、多くの女工さんたちの労働力で成立していた。
「ああ野麦峠」ではないが、女工哀史といわれる過酷な環境の中で、働かされていたともいえる。
そんな紡績会社が、従業員の福利厚生、健康維持の目的のために、手軽に休憩時間でも出来るバレーボールが推奨し、そしていくつかの紡績会社が工場単位でその強さを競ったりもしたのだ。
そのなかで大日本紡績が群を抜いて強く、尼崎工場や足利工場が強かったらしい。
僕の生まれた1953年に強い選手を貝塚に結集し、翌年に「日紡貝塚」というチーム名であの「鬼の大松」監督を据えたのだ。
1959年から「日紡貝塚」は258連勝というとんでもない記録を達成し、この頃すでに「東洋の魔女」と言われていた。
つまり「東洋の魔女」は、「日紡貝塚」チームにつけられたものだった。
だからこの頃の世界選手権は、「日紡貝塚」単独チームであり、東京オリンピックの代表チームも河西昌枝以下ほとんどの選手が「日紡貝塚」所属だったのである。
その後は、東洋紡であったり、クラボウであったり、紡績会社は実業団でも強かったが、いかんせん産業の盛衰とともに、実業団リーグの存続が危うくなったり、吸収されたりする。
「日紡貝塚」であっても、その後は日本レイヨンとの合併でユニチカ貝塚に名称変更。その後不況でまたまた身売り話となり、選手全員を引き受けたのが東レアローズである。
河西昌枝は当時でも長身であったが、セッターを務めたし、前衛ではセンタープレイヤーとしても活躍した。
その後も、ママさんバレーの普及に努め、最近でも全日本の試合のゲストや、「東洋の魔女」時代の回顧番組などに出ておられたが、背筋がピンとしてまことに明瞭な話し方をされ、どこか上品さもあった。
余談だが、僕が育った松阪は、もともと木綿の街であったから産業革命以降は紡績の町でもあったのだが、鐘紡紡績(カネボウ)の工場があり、多くの女子従業員で支えられていた。
僕らは中学生時代、自転車に乗って、工場の近くまで行き(ガキで車じゃないところが哀しい)、ナンパの真似事をしたことを覚えている。もちろん実際にナンパの勇気はなく、ヤンキーな兄ちゃんたちが週末になると工場に車で誘いに来たりしていたのを、囃し立てるぐらいしか出来なかったのだが(笑)。
そんな時も、工場の片隅で、バレーボールで嬌声をあげている女の子たちをたくさん見かけたものだ。
もちろん、その工場も今はもうない・・・合掌!
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