サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

ワチャ・ギブアップ/ジョー樋口(レフリー)/81歳

2010年11月11日 | 毎日がメメント・モリ

プロレス黄金期支えたジョー樋口さん死去


サンケイスポーツ 11月9日(火)7時51分配信











プロレス黄金期支えたジョー樋口さん死去
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旗揚げされた全日本プロレスに当初から参加。馬場さん(中央)の試合には欠かせないレフェリーとして名勝負を裁いた、樋口さん(左)。右はスタン・ハンセン(写真:サンケイスポーツ)
 1972年に故ジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスに参加し、ファンを沸かせる小気味よいレフェリングで人気を集めたジョー樋口氏(じょー・ひぐち、本名樋口寛治)が8日、肺腺がんのため死去した。81歳だった。引退後はプロレスリング「ノア」の監査役などを務めていた。葬儀・告別式は親族のみで行う。凶器攻撃を気づかないふりで見過ごす、あの“名人芸”はもう見られない。

 マット界を彩った昭和の名レフェリーが、逝った。樋口さんは8月28日に東京・後楽園ホールで行われたノア・GHCジュニアタッグ選手権の立会人を務め、リングへ上がるなど元気な姿を見せていたが、その後、容体が急変。この日早朝、静かに息を引き取った。

 樋口さんは横浜市生まれで、少年時代は柔道に取り組み、54年にプロレスへ転向。日本プロレスなどに参加した後、60年に引退した。63年に外国人係(外国人レスラーの世話係)兼通訳として日本プロレスに復帰し、72年には馬場さんが旗揚げした全日本プロレスに参加した。

 馬場さんの試合には欠かせないレフェリーとなり、スキンヘッドに青いシャツがトレードマーク。レフェリングでも“名人芸”を披露した。

 試合が膠着すると、意味不明のフレーズ「ワチャ・ギブアップ」(Watch out give-up)と叫び、動きを促し、リズムをつくる。ヒール(悪役)レスラーの反則には“お約束”のように気づかないそぶりを通してファンをやきもきさせた。選手同士の乱闘に巻き込まれ、“失神”して決着に向かう「失神ギミック」は語りぐさ。さらに、ギリギリまでスリーカウントをたたかない絶妙なタイミングも忘れられない。

 樋口さんはこうしたレフェリングに「反則を取ってもいいのだが、それではお客さんが満足しない。これがプロレスのレフェリーの難しいところ」と、常に観客の目線に立っていた。

 97年にレフェリーを引退し、99年に馬場さんが亡くなり、全日本プロレスを退社。だが、00年に人気レスラーだった故三沢光晴さんから要請を受け、ノア旗揚げに監査役として参加。その後はGHCタイトル管理委員長も務めた。ノア・田上明社長(49)は、「日本のプロレス界に多大なる功績を残された。これからもその厳しい目で、天国からノアを見守ってください」とコメント。古巣の全日本・武藤敬司社長(47)も「心からのご冥福をお祈りいたします」と故人をしのんだ。

 長年マットをたたき続けた樋口さんの右掌は、左のそれより大きく、厚かった…。

プロレス界で往年も現役もレスラーたちにはそれぞれ熱狂的なファンが存在するが、レフリーという存在で、こんなに愛された人もいなかった。
物心つく頃から街角テレビでプロレス中継を見ていた僕は、レフリーといえば「オキシキナ」という人の名前かどうかわからない呼び名を覚えている。
それが沖識名という名前だとわかったのは、何年もあとになってからである。
その後継のように出てきた樋口さんだが、彼の現役レスラー時代は6年ぐらいに過ぎず、僕も小学校に入る頃ぐらいまでだったので、記憶がない。
樋口さんの失神や凶器の見てみぬふりや微妙なカウント3の最後のゼロコンマ数秒や・・・が懐かしい。名人芸といってもいい。
レフリーというのは四角いジャングルを大男たちがロープの反動でかけぬけたり、大きくぶん投げたりするわけだから、よっぽど反射神経にすぐれなければ、つとまらない商売だ。
たまにラリアットなんかが空をまって、背後に居るレフリー直撃なんていうこともあるわけだから、命がけでもある。
樋口さんのエピソードは枚挙にいとまがないが、一番好きなのは、カウントでリングをたたき続けたため、左右の手の大きさが、だいぶん違っていたという話だ。
晩年は、その後遺症か食事するときにも手が震えたという。
コールで「レフリー、ジョー樋口!」と大声でアナウンスされる。
会場からは、「ジョー!、ジョー!」と声援があがる。
懐かしいいいエンタテイメントの状景だった・・・合掌!




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