けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

公式見解/発表の重みを理解しているのか?

2013-05-30 23:58:32 | 政治
今日は橋下大阪市長の問責決議秘訣という変なニュースで湧いていたが、全く持って頭をかしげたくなる事態だ。

国会では、解散がある衆議院と解散がない参議院という背景から、意思表示としては同じ意味ながら別の条文で規定される「問責」と「不信任」というふたつの制度がある。そして衆院も参院も、その一方のみしか選択肢はない。大阪で法律がどうなっているのか詳細は知らないが、国会の様な背景とは全然関係なく、大阪市議会には何故かその二つが選択肢としてあり、状況に応じて使い分けられるという制度になっているという。

橋下市長のこれまでの慰安婦発言を受けて、明らかに大阪市議会の維新の会以外の党の議員達は、ここぞとばかりに市長の辞職を求める発言を連呼していた。それは例えて言えば、報道陣に焚き付けられて頭に血が上って少々過激な発言をしたり、ツイッターなどで猛烈に相手を非難するなどのようなもので、穏やかな口調で「おいおい、橋下さん、もう少し冷静になった方が良いですよ!」というものではなく、「おいこら、橋下!即刻、辞任せんかぁ~!」という口調であったことは皆が良く知っている。

橋下市長の海外特派員協会での記者会見で事前に配ったペーパーには、それだけを見れば本来は突っ込みどころなどない内容であるのだが、その前に頭に血が上って発言した過激な言葉を引き合いに出し、「お前はそんなこと言ってるけど、実際は違うんだろ!」、「心の底では女性を道具程度にしか見てないんだろ!」と責め続けた。つまり、幾ら綺麗ごとを言っても、その前後の脈略から本音と建前が透けて見えるなら、それは本音を優先して評価されて文句は言えないはず・・・、というロジックが背景にある。これには少し異論があるので後で述べるが、ここでは話を先に進めさせて頂き、国民や市民が何を今回の問責の件で感じたかを代弁させて頂けば、「きっと市議会は、問責が可決すればその後の市議会の中で、橋下市長の足をこれまで以上に引っ張る武器として、『問責が可決されたのだから、もはや民意はあなたにない』と利用する」のだろうと思っている。決して、「問責は可決したけど、これからも橋下市長とは、是々非々で議論を戦わせて頂きますよ!」なんて思っていると信じている大阪市民はいない。であれば、建前上はどの様なロジックがあっても、市民ないしは橋下市長側から見れば、一気に拳銃でトドメを刺しに来るのか、ナイフで刺して出血多量で死に至ることを狙うのかの違い程度でしかないだろう。勿論、自民党大阪市議団などはそんなことを認めないだろうが、私に言わせれば「橋下市長が勘違いした!」と言うなら、彼らはその勘違いを正す選択肢を持っていたはずなので、その選択肢を使えば良かったのだと思っている。

ではその選択肢とは何か?これが先ほど「異論」と書いた部分に関係するのであるが、もし自民党大阪市議団などが「橋下市長は勘違いしている!逆切れだ!」と非難するなら、オフィシャルな声明を出して、「今回の問責は、法的拘束力がある不信任とは異なり、単に『最近の言動は市政に影響が出かねないので、今後は気を付けてください。』という程度のものです。問責が可決しても、決してそれを理由に審議拒否したり、足を引っ張ろうとはしません。決して辞職を求めるものなどではありませんよ!」と宣言すれば良いのである。つまり、それまでの自分たちの行動から、大阪市民の人達が肌で感じていたであろう自分たちの本音を、オフィシャルに否定すれば良いのである。

変な話であるが、政治というものは、ある種、妥協を何処で行うかを見極めるセンスの競い合いの様なものである。仮に与党が圧倒的多数をもっていても、それが横暴の様に映っては次の選挙でボロ負けしてしまうから、何処かで野党の主張を取り込むなどの妥協をしなければならない。時として、それは私的な意見や信念に外れるものかも知れない。しかし、政治のためにその決断をしたということは、結果が問われる政治の世界では重要であったりする。だから、心の奥底の本音を封殺して、妥協した内容を公式な見解として発表したならば、それが彼の今後の行動を縛ることと引き換えに、その妥協の公式見解をもとにその人の評価を行うのが筋ではないかと考える。

例えば、小泉元総理と第1次安倍内閣の時の安倍元総理を比較すれば、明らかに思想・心情的には当時の安倍元総理はタカ派で、比較的常識派の小泉元総理の方が中国からは評価されてしかるべき人物である。しかし、当時の中国政府がどう判断したかと言えば、就任前の言動からは明らかにタカ派で許せない存在のはずの安倍元総理を厚遇し、小泉元総理はケチョンケチョンに冷遇したのである。これが良いかどうかも議論があるべきだが、ビジネスライクな判断をすれば、大々的に行われる曖昧さの排除された公式な見解ないしは実際の行動(第1次安倍内閣で総理は靖国を参拝しなかった)は、その他の勢いで言った微妙な発言よりも、何倍も尊重されてしかるべきである。勿論、「女性の人権を尊重する」とか言いながら、裏では買春をしていたとか行動が「人権を尊重していない」と証拠が示された場合は値致命的な意味を持つが、その様な証拠がなければ、将来の自分の行動を制限することになるであろう公式発言、公式見解は、その他のどちらにも取れかねない曖昧な発言よりも尊重されてしかるべきである。

だから今回、自民党大阪市議団などが早い段階で「問責は、審議拒否や辞任要求とは全く意味が違う」と宣言すれば、流れは少しは違っていたのかも知れない。しかし、その様な公式見解を発しなかったことからも、本音は審議拒否のための錦の御旗に利用することが目的であることが明らかになってしまった。だから、本音が審議拒否や辞任要求が目的なら、いっそのこと素直に「不信任」のカードを切ればいいのに、そうではないからくだらない損得勘定で政局を作ろうとしているのだとバレバレになってしまうのである。

今回の件でも明らかになったように、政治家というのは自分のその後の選択肢をフリーハンドにしたいがために、玉虫色の状態で曖昧にすることを好む傾向にある。しかし、常識的に見て、それが良い世界をもたらすとは到底思えない。尖閣の棚上げ論も、明らかに小平は中国の立場が弱い時の解決を先送りし、相対的に立場が逆転したところでの解決を志向したのである。河野談話も、どちらとも取れる表現を利用して玉虫色の解決を図ろうとして、結局、あの当時よりも事態は後々深刻になるのである。だから、(当時の小平がとったように)外交上など戦略的に曖昧にした方が国益に叶う場合もあり得ると例外を認めた上で、(特に政局がらみなどでは)一般論としては公式な見解を明確にして曖昧さを排除しようとする(橋下市長の様な)行動はもっと評価されるべきであると考える。

政治評論家は、狐と狸の馬鹿し合い的に面白おかしく報道するが、もう少し前向きな部分も評価しても良いのだと思うのだが・・・。

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