巷では橋下発言が避難轟々だったが、恐れ入ることに桁違いの問題発言が飛び込んできた。韓国の中央日報に20日に掲載された広島、長崎への原爆投下を「神の懲罰」と表現し、「日本の軍国主義の犠牲になったアジア人の復讐」と論評した記事のことである。これを受けて韓国の日本大使館は即座に抗議し、今日、菅官房長官も非常に強い口調で避難を行った。今日はその辺の背景についてコメントしたい。
多分、韓国の人達はこの話題に対し、「橋下発言に比べたらかわいいじゃないか!」と開き直るのだろうが、これは大いなる間違いである。例えば、下記のサイトの日本文を見れば、論文形式で橋下代表が議論したかった背景が記されている。
史実を世界に発信する会「論文(5) 『従軍慰安婦問題』の真実(尾形美明)」
ここにはご丁寧に日本語と共に英語版も掲載されている。河野談話の背景の部分を読めば、日本政府が強制連行・軍/政府の直接的な関与を示す証拠が見つからなかったのに、韓国側が「強制性を認めれば、今後、歴史カードは封印する」と約束したことに心が揺らぎ、ついつい玉虫色の表現で暗黙に強制性を認める発言をしてしまった。しかし、韓国はそれを裏切り、それで鬼の首を取ったかのように世界にアンチ日本キャンペーンを展開するに至った。これが正しいか間違っているかは現時点では断定しないが、これが正しい可能性と間違っている可能性を両方認めて、再度、フェアな立場で調査をしましょうという主張なのだから、これを否定する人は「調査をされては困る人達」であることは明らかである。橋下代表は繰り返し繰り返しマスコミに出てきて真意を丁寧に説明しているから、フェアな立場で見れば非常に良心的であることは明らかである。
しかし、中央日報の対応はどうであろうか?この話題が明らかになって、私は即座に中央日報のサイトを検索したが、既にこの記事は削除され、中央日報はこの記事を「社の見解ではない」と弁解した。つまり、旗色が悪いと感じたら謝罪もせずに取り下げて、何事もなかったように振舞うのである。全く持って誠意のかけらもない。橋下代表が先日、ぶら下がり取材を拒否したことがあったが、あれは某新聞社が「ペーパも何も見ないで、全てアドリブで1日1時間以上に渡り発言している橋下代表に対し、口が滑ったようなことも含めて全て政治家は責任を持て」と言うから、多数の人間が文書に起こした記事をダブル・トリプルチェックで校正をかける新聞記事と、良心的にアドリブで本音を喋る政治家の言葉と、同列で重箱の隅を突くのはアンフェアだと主張したものである。これに対し今回の中央日報の件は天下の新聞紙上に掲載されて記事である。責任ある立場の者が何重にもチェックして、それで社として責任をもって掲載できると判断したことに対して「あれはなかったことに・・・」と言うのだからタチが悪い。
ところで、私が今回最も気にしているのは、この記事の背景にあるものの考え方である。最初に断わっておくが、中央日報が記事を削除したので私はこの記事の内容を正確に把握はしていない。橋下発言が捻じ曲げて伝えられたように、この記事も捻じ曲げて伝えられている可能性もあるが、それを承知で掲載を削除したのである程度報道の内容は本当なのだろうという前提で書かせて頂く。さてそのポイントとは、この記事の筆者は、「戦勝国であれば何をしても最後には肯定的に捉えられる」という前提でものを書いていることが分かる。広島、長崎への原爆投下を「日本軍国主義へのアジア人の復讐だった」と主張しているのもそうだが、最後に「日本に対する火雷(爆撃)が足りないと判断するのも、神の自由だ」と日本への軍事攻撃を肯定する主張で締めくくっているあたりはその最たるものだ。ここで「神」を持ち出すということは、自分たちの立場が絶対で議論の余地がないことを意味する。問答無用というスタンスである。
戦時中に日本やドイツが近隣諸国に多大な迷惑をかけたのは事実として認めるとして、だからと言って10万人もの非戦闘員の一般市民がそのとばっちりを受けるということを正当化できるというのは戦勝国ならではの論理である。しかも、韓国は日本と戦争していないから戦勝国でもない。勝手に戦勝国に後付けで混ぜてもらおうとして、連合軍から拒絶された国なのである。その国が、長崎、広島合わせて10万人以上もの犠牲者を侮辱するのは許せない。井伏鱒二の「黒い雨」を読めば、本当に壮絶なのは原爆で死んだ人ではなく、原爆で生き残った人々であることが良く分かる。あの、希望のかけらもない無間地獄で苦しむ人々に対し、あの著者は何と言って言い訳するのか?
話は少しずれるが、1983年公開の「デッド・ゾーン」(デヴィッド・クローネンバーグ監督、クリストファー・ウォーケン主演)の映画がある。ふとした交通事故で未来を予測できる能力を持った主人公が、大統領候補が核戦争を始めようとする姿を予知し、その候補暗殺を試みるという映画だ。こう書くとつまらないストーリーだが、非常に奥の深い、私の好きな映画のひとつである。この映画から私が感じたことは、歴史が誤った方向に向かいそうなとき、それを阻むために超法規的な最終手段を選択せざるを得ないことがある。私もこの映画の主人公だったら同じ行動をとると思うが、少なくとも、この映画ではその主人公をヒーローとして扱っていない。「止むを得ないこと」であれば、非人道的なことも時として選択せざるを得ないことがあるかも知れないが、その場合には、その非人道的なことに対する報いを受ける覚悟が必要であることをこの映画は伝えている。
しかし、今回の報道はどうだろうか?仮に、100万歩ほど譲って、戦争終結に広島・長崎の原爆投下は必要だったとしよう。しかし、その決断をした人、その投下を命令・実行した人は、10万人以上の罪もない人の命を奪った罪の重さを問われなければならない。それは、決して裁判にかけるという意味ではなく、誰が許しても神だけは許さないという意味である。しかし、筆者はそれを「神の権利」と言うのだから、「止むを得ないこと」ではなく「当然、殺す権利があった!」と考えていることになる。まだ殺し足りなくて、追加で爆撃をして殺そうというぐらいだから・・・。
そして、この「戦勝国は何でも許される」、「歴史を塗り替えても何でもOK」、「最終的には爆撃も可」という主張は最近はブレーキが利かなくなってしまっている。反日教育のたまものだと思うが、朴大統領が千年先まで変わらないと言っているように、戦勝国気分は千年間有効だと考えていることが伺い知れる。しかし、これは明らかに間違いであり、この様な一方的な偏狭なナショナリズムは何処かで正されなければならない。
ところで同じ中央日報の記事だが、こんなものもあった。
中央日報2013年5月23日「『慰安婦妄言が出ないよう全国民に教育を』国連、日本に警告」
背景は微妙だが、国連が日本に対して「全国民レベルで慰安婦問題の教育をするように」との勧告に乗り出したというくだりは穏やかではない。ここでの「慰安婦」の表現が強制性を前提とする「従軍慰安婦」ではなく、一般的な性サービスの「慰安婦」という表現であることから、国連が強制性を承認した訳ではないだろうが、このまま行くと無条件で強制性が既成事実化してしまうかも知れない。
やはり、言うべきことは言わねばならない。まずは、この件をもっと問題として扱うべきだろう。
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多分、韓国の人達はこの話題に対し、「橋下発言に比べたらかわいいじゃないか!」と開き直るのだろうが、これは大いなる間違いである。例えば、下記のサイトの日本文を見れば、論文形式で橋下代表が議論したかった背景が記されている。
史実を世界に発信する会「論文(5) 『従軍慰安婦問題』の真実(尾形美明)」
ここにはご丁寧に日本語と共に英語版も掲載されている。河野談話の背景の部分を読めば、日本政府が強制連行・軍/政府の直接的な関与を示す証拠が見つからなかったのに、韓国側が「強制性を認めれば、今後、歴史カードは封印する」と約束したことに心が揺らぎ、ついつい玉虫色の表現で暗黙に強制性を認める発言をしてしまった。しかし、韓国はそれを裏切り、それで鬼の首を取ったかのように世界にアンチ日本キャンペーンを展開するに至った。これが正しいか間違っているかは現時点では断定しないが、これが正しい可能性と間違っている可能性を両方認めて、再度、フェアな立場で調査をしましょうという主張なのだから、これを否定する人は「調査をされては困る人達」であることは明らかである。橋下代表は繰り返し繰り返しマスコミに出てきて真意を丁寧に説明しているから、フェアな立場で見れば非常に良心的であることは明らかである。
しかし、中央日報の対応はどうであろうか?この話題が明らかになって、私は即座に中央日報のサイトを検索したが、既にこの記事は削除され、中央日報はこの記事を「社の見解ではない」と弁解した。つまり、旗色が悪いと感じたら謝罪もせずに取り下げて、何事もなかったように振舞うのである。全く持って誠意のかけらもない。橋下代表が先日、ぶら下がり取材を拒否したことがあったが、あれは某新聞社が「ペーパも何も見ないで、全てアドリブで1日1時間以上に渡り発言している橋下代表に対し、口が滑ったようなことも含めて全て政治家は責任を持て」と言うから、多数の人間が文書に起こした記事をダブル・トリプルチェックで校正をかける新聞記事と、良心的にアドリブで本音を喋る政治家の言葉と、同列で重箱の隅を突くのはアンフェアだと主張したものである。これに対し今回の中央日報の件は天下の新聞紙上に掲載されて記事である。責任ある立場の者が何重にもチェックして、それで社として責任をもって掲載できると判断したことに対して「あれはなかったことに・・・」と言うのだからタチが悪い。
ところで、私が今回最も気にしているのは、この記事の背景にあるものの考え方である。最初に断わっておくが、中央日報が記事を削除したので私はこの記事の内容を正確に把握はしていない。橋下発言が捻じ曲げて伝えられたように、この記事も捻じ曲げて伝えられている可能性もあるが、それを承知で掲載を削除したのである程度報道の内容は本当なのだろうという前提で書かせて頂く。さてそのポイントとは、この記事の筆者は、「戦勝国であれば何をしても最後には肯定的に捉えられる」という前提でものを書いていることが分かる。広島、長崎への原爆投下を「日本軍国主義へのアジア人の復讐だった」と主張しているのもそうだが、最後に「日本に対する火雷(爆撃)が足りないと判断するのも、神の自由だ」と日本への軍事攻撃を肯定する主張で締めくくっているあたりはその最たるものだ。ここで「神」を持ち出すということは、自分たちの立場が絶対で議論の余地がないことを意味する。問答無用というスタンスである。
戦時中に日本やドイツが近隣諸国に多大な迷惑をかけたのは事実として認めるとして、だからと言って10万人もの非戦闘員の一般市民がそのとばっちりを受けるということを正当化できるというのは戦勝国ならではの論理である。しかも、韓国は日本と戦争していないから戦勝国でもない。勝手に戦勝国に後付けで混ぜてもらおうとして、連合軍から拒絶された国なのである。その国が、長崎、広島合わせて10万人以上もの犠牲者を侮辱するのは許せない。井伏鱒二の「黒い雨」を読めば、本当に壮絶なのは原爆で死んだ人ではなく、原爆で生き残った人々であることが良く分かる。あの、希望のかけらもない無間地獄で苦しむ人々に対し、あの著者は何と言って言い訳するのか?
話は少しずれるが、1983年公開の「デッド・ゾーン」(デヴィッド・クローネンバーグ監督、クリストファー・ウォーケン主演)の映画がある。ふとした交通事故で未来を予測できる能力を持った主人公が、大統領候補が核戦争を始めようとする姿を予知し、その候補暗殺を試みるという映画だ。こう書くとつまらないストーリーだが、非常に奥の深い、私の好きな映画のひとつである。この映画から私が感じたことは、歴史が誤った方向に向かいそうなとき、それを阻むために超法規的な最終手段を選択せざるを得ないことがある。私もこの映画の主人公だったら同じ行動をとると思うが、少なくとも、この映画ではその主人公をヒーローとして扱っていない。「止むを得ないこと」であれば、非人道的なことも時として選択せざるを得ないことがあるかも知れないが、その場合には、その非人道的なことに対する報いを受ける覚悟が必要であることをこの映画は伝えている。
しかし、今回の報道はどうだろうか?仮に、100万歩ほど譲って、戦争終結に広島・長崎の原爆投下は必要だったとしよう。しかし、その決断をした人、その投下を命令・実行した人は、10万人以上の罪もない人の命を奪った罪の重さを問われなければならない。それは、決して裁判にかけるという意味ではなく、誰が許しても神だけは許さないという意味である。しかし、筆者はそれを「神の権利」と言うのだから、「止むを得ないこと」ではなく「当然、殺す権利があった!」と考えていることになる。まだ殺し足りなくて、追加で爆撃をして殺そうというぐらいだから・・・。
そして、この「戦勝国は何でも許される」、「歴史を塗り替えても何でもOK」、「最終的には爆撃も可」という主張は最近はブレーキが利かなくなってしまっている。反日教育のたまものだと思うが、朴大統領が千年先まで変わらないと言っているように、戦勝国気分は千年間有効だと考えていることが伺い知れる。しかし、これは明らかに間違いであり、この様な一方的な偏狭なナショナリズムは何処かで正されなければならない。
ところで同じ中央日報の記事だが、こんなものもあった。
中央日報2013年5月23日「『慰安婦妄言が出ないよう全国民に教育を』国連、日本に警告」
背景は微妙だが、国連が日本に対して「全国民レベルで慰安婦問題の教育をするように」との勧告に乗り出したというくだりは穏やかではない。ここでの「慰安婦」の表現が強制性を前提とする「従軍慰安婦」ではなく、一般的な性サービスの「慰安婦」という表現であることから、国連が強制性を承認した訳ではないだろうが、このまま行くと無条件で強制性が既成事実化してしまうかも知れない。
やはり、言うべきことは言わねばならない。まずは、この件をもっと問題として扱うべきだろう。
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