けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「フクシマ」を勝手に利用するな!

2012-01-10 23:44:50 | 政治
大晦日の晩に放送された「朝まで生テレビ」を録画していたのであるが、最近、やっと時間を見つけて見ることができた。その際、番組を見ながら感じたことがある。番組のテーマは福島の原発事故被害に対する討論だったが、参加者の発言の幾つかは、被害者のことなどそっちのけで参加者の思い・主義主張を福島の件に絡めて「利用している」と感じられるものだった。

例えば、自由報道協会の上杉隆さんの活動は、多くの部分でジャーナリストの鑑ともいう方だと理解しているが、如何せん、これまでの彼の体験の中で既成のマスコミに対する怨みつらみがほとばしり、「正義」を語っているはずなのに「悪意」が言葉の端々に垣間見れるという感想を私は日頃より感じている。一応弁護しておくが、私は上杉隆さんは好きなジャーナリストの一人であり、これからも活躍を期待している。しかし、鞘のない両刃の剣の様な危なっかしさは、自らが組み上げるロジックの何処かに破綻している箇所があってもそれに気づかないで突っ走ってしまうリスクを増長することになり、その点を心配してもいる。

実際、放射線の専門家が上杉さんの発言の中で、科学的な見地から誤りを指摘する場面もあったが、指摘されると話題を変えて、そんな誤りなどなかったかの様に振舞っていた。また、福島の海に汚染水を各国に通知することなしに投棄したことから「世界中の誰もが日本政府のことを全く信用しなくなった」と上杉さんが断言していたのに対し、司会の田原総一郎さんは何度も「そんなことはない」と指摘していた。田原さんの指摘の意味を意訳すれば、「そんなことをしていたら、誰からも信用されなくなってしまうのは事実であるが、信用を0から100で表したとすれば、『既にゼロになった』と断定してそこから議論を始めると正しい結論にたどり着けない」という意味である。

この辺の議論の仕方は、自らの正当性を相対的に高く見せるために、対立する相手を陥れて利用しているように見える。本来、正当性は絶対量である程度評価できるものである。もちろん100パーセント正しいということも殆どないが、0から100までの間で連続的に値を取り得る。「90パーセントは正当性を評価できる」という内容であれば多分正しいと誰もが信じることが出来るが、「相手の正当性は5%だが自らの正当性は10%だから、私の主張の方がもっともらしい」と主張しても誰も信用しない。もちろん、正当性を定量的に数値化することも不可能であろうし、識者であってもバイアスがかかった人は間逆の評価をするかも知れないので、どうしても相対的な議論に頼らざるを得ないことはあるが、自らの正当性の高さを主張するよりも相手の正当性の低さに主眼をおいて(ネガティブキャンペーン的に)議論している場合には要注意である。

さて、前置きが大分長くなったが、本当に言いたいのはこれからである。福島の惨状が酷いから「反原発だ!」というのは理解できる。しかし、田原さんが番組の中で最も議論したかった論点は、「この惨状の福島をこれからどうする?」という点である。高濃度の放射性物質による汚染は一朝一夕ではどうしようもない中で、「避難したいから補償を!」という人と「それでも福島に住みたい!」という人がいる。その様な人たちが、福島のこれからを議論しようとする中で、彼らの悲惨さを利用して「反原発だよね!」「反原発だよね!」と彼らを利用しようとする様な言動は非常に不謹慎である。反原発の立場からすれば、僅かでも原発に起因する放射性物質が検出されれば、そこは「住めない土地」ということにした方が好都合である。「それでも福島に住みたい!」という人がいることは不都合である。セシウムのリスクと共に生きるという人がいたら、「じゃあ、ストロンチウムはどうだ!」と別の恐怖をあおり、何としてでも「反原発と言ってくれ!」という感じで迫る。

放射線との共存を覚悟する彼らの言い分は、放射線のリスクも数多くのリスクのひとつであり、故郷を離れることも、爺婆だけを故郷に残すことも、ないしは子供だけ親戚の家に避難して爺婆と子供夫婦だけが故郷に残ることも、それぞれがリスクであり、それらは相対的だということだ。以前、東京の水に放射性物質が混入した際、過剰にミネラルウォーターを乳児に飲ませることがもてはやされたが、硬水のミネラルウォーターを飲ませることは別のリスクであり、ひとつのリスクを逃れようとしたら別のリスクに捕まってしまうということは多々あるのである。彼らは思い悩み、重い決断をしようとし、そんな彼らにとって最も重要なのは「その選択をサポートする十分な補償と、危険の度合いを定量的に把握するための綿密な測定、継続的な健康診断、等の制度の一刻も早い確立」であって、「反原発」は当たり前だけれども「反原発では食えない」という現状である。「反原発で食っている」人たちに、とやかく言われたくはないのである。

非常に乱暴な言い方で適切な例だとは思わないが、例えばここ30年を引き合いにして計算したとして、自動車がこの世の中に存在したがために死亡した交通事故被害者を世界中で数えたら膨大な数に上る。チェルノブイリでどれだけの人が死亡したか真の意味で正確な統計量は把握していないが、それ以上の人が自動車事故で亡くなっているとしても人々は「自動車のリスクと共に生きる」ことを選ぶのである。アメリカでは、拳銃や自動小銃を乱射する無差別殺人の事件が頻発しても、それでも「銃と共に生きる」リスクを選ぶのである。私は、放射線量次第では子供を巻き込むのは慎むべきだという立場に立つが、子供を除けばリスクを定量的に評価できる環境を構築する上でという前提で、放射線との共存という選択肢も残されてしかるべきだと考える。

話をもとに戻せば、今回の事故では様々な問題があった。政府の事故後の対応は人災そのものだし、9ヶ月も経って殆ど何も手がついていない状況は政治の怠慢であろう。東京電力の犯罪的行為は家宅捜査など徹底的に洗って欲しいし、マスコミだって殆ど機能していなかった。反原発か段階的ソフトランディング的脱原発かも議論すべきである。しかし、それらは個別に全てを検証すべき事象であって、全てを反原発に絡めて議論しても解決などできやしない。

ひとつひとつを個別に丁寧に検証してこそ、初めて希望の光が見えてくると思う。今回の放送は福島のスタジオからの生放送だった。東京ではなく、現地で議論した姿勢を評価したい。そして、このような中で、福島に世界に先駆けた核廃棄物処理や放射線の研究施設を作り、放射線の人体への長期的な影響の研究や核廃棄物の最終処分方法などを研究し、暗闇の中に一筋の輝く未来を見出すべきだという提言は、(その良し悪しは議論があるとしても)前向きな向き合い方として共感できるものであった。

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