けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

シーシェパードとディベートと。。。

2012-01-07 23:32:47 | 政治
いきなりの話であるが「ディベート」という言葉を皆さんはご存知だと思う。しかし、この「ディベート」と「議論(ディスカッション)」は別物だと理解されているだろうか?もちろん広義の「ディベート」は「ディスカッション」をも含むが、狭義の「ディベート」とは「ディスカッション」とはかけ離れたものである。

「ディスカッション」とは、意見の対立する両者がお互いの主張を述べ合い、相互にそれを理解し、理解した上で最良の答えを導き出そうとする努力をさす言葉である。しかし、狭義の「ディベート」とは、自らの主義主張は別にして、あたかも勝ち負けを競う競技の様に(論理立てて)「相手を論破」することに重きを置いている。裁判などはまさにそうであり、弁護士は検察側の主張を突き崩す弱点を見出し、そこを攻撃し続ける。以前、米国で起きたいわゆるO.J.シンプソン事件では、弁護団は人種差別問題に陪審員の注意を向けることで刑事裁判では無罪判決になったが、民事裁判では殺人が認定されることになった。実際のところがどうであったかは分からないが、本来の論点とは違う議論のすり替えにより、結果を有利に導こうというやり方は明らかに「ディスカッション」とは異なる。

記憶が定かでないが、多分、1990年の頃だったと思う。フジテレビだったか、何処かの深夜番組でディベートを扱った番組があった。この時、私は初めてディベートという言葉を知った。このディベートは、いわゆる「狭義のディベート」、つまり「ディスカッション」の対局に位置し、自らの主義主張などどうでも良く、如何に論理立てて相手を論破するかを競うのである。

面白いテーマがあった。その当時、マドンナ旋風を巻き起こしていた社会党党首の土井たか子を首相にすべきか否か?を問うものであった。その際、No(首相にすべきでない)という側の人は、如何に土井たか子が首相として不適切かを説明しようとしていた。しかし、私は面食らってしまった。Yes(首相とすべき)という側の人の立論のポイントは、「如何に土井たか子が無能であるか」を説明しようとしたのである。北朝鮮による拉致事件なども話題になる中で北朝鮮を友好国と位置づけ、リビアのカダフィ大佐に対しても同様の好評価をしている。「こんな無能な政治家がいるか!」と矢継ぎ早にまくし立てる。最初は、何か勘違いしているのかと思った。しかし、最後の弁論でその意味が分かった。

その当時は、リクルート事件などで有能な政治家が巧妙に裏で金を稼ぎ、しかし殆ど尻尾を捕まれることなく逃げ切り、政治に対する不信感が募るという風潮があった。頭がいい奴は、頭がいい故に巧妙で、裏で何をやっているか分からない。しかし、これだけ無能であれば隠し事はできない。仮に無能な人が総理大臣いなっても、サポートする官僚は有能(この当時は、日本の官僚は世界一優秀と言われていた)である。自民党と組んで、要所要所の重要な閣僚に仕事ができる人を配置すれば、お飾りの首相は無能な人の方が良い・・・という主張であった。

目からウロコだった。こんな戦術があるのかと驚いた。多分、判定はYes側の勝ちだったと思う。しかし、確認はしていないがその勝者も、本当に土井たか子が首相になって欲しいとは思っていないのは明らかだと思った。

ディベートとはこの様なものである。今、ディスカッションを志向する政治家が少なくなっていると思う。強い信念を持ち、自らが政治生命をかけてやり遂げたいと思っているテーマがある人は別として、殆ど選挙にしか興味がないような人はディベートの技術だけを磨き、ひたすら政敵(場合によっては、同一の党内にも存在しうる)を論破することで自分が目立つことを狙っている。この様な人が日本を正しい方向に導いてくれるとは思えない。

話は変わるが、今年に入ってもシーシェパードが反捕鯨の妨害行動を続けている。彼らは、お互いの文化の違いを理解した上で、データに基づく論理的な議論により答えを見出そうとはしない人達である。彼らの活動を映像にしてエンターテインメントとし、面白おかしく放送することで金を集める。更に過激になればもっと話題になる。金になる。しかし、捕鯨団体とのディスカッションを行なった映像をテレビで流しても、絶対に金にならないのであろう。勝つためには手段を選ばない。そして話題性を高め、自らの社会的な存在感を高め、より多くのお金を集めるようになる。

私が危惧しているのは、今、反原発の団体がシーシェパード化していくのではないかということである。昨年も、某俳優が反原発を訴えて事務所を辞めた。刺激的な発言をすることで注目が集まり存在感が高まる。すると、今度は逆にいろんなところから引っ張りだこになる。そして更に刺激的なことを言えば、発言力がどんどん高まり相手を論破するのに役立つようになる。少々強引かも知れないが、彼らのやり方は相互理解を高めた着地点の模索のためのディスカッションではなく、パフォーマンス性を高めることで同調者を引き出し、ただひたすら勝ちにこだわるディベート的な発想なのだと思う。

参考までに、環境エネルギー政策研究所の飯田哲也さんという方は、反原発の急先鋒の方だと理解しているが、彼の論調はデータに基づき論理的な主張でディスカッションが出来る方だと思っている。彼は内閣官房原子力事故再発防止顧問会議の委員にも就任しているが、一部の人は「最初に結論ありきの会議であるのに、原発反対派の人も取り込んで会議を運営することで、会議の正当性を取り繕う手法だ!そんな会議には参加してはいけない!」と言っているが、それでも参加しているのは彼の良心なんだろうと思う。いささか納得できない部分はあっても、耳を傾けて拝聴しようと言う気持ちは湧いてくる。

私はディスカッションに重きが置かれる世の中であって欲しいと思う。

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