スロットをやめるとお金が減らない事に気がつきました。
けんたです。
相変わらず銀行残高は535円です。
今日は隔週で恒例となりつつある弟との映画鑑賞会。
上映作は:
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スターリングラード
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地獄の黙示録
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パッション
スターリングラードとパッションは、ネタバレ込みで樺沢紫苑さんのサイトで詳しく書いてあるので、一度ご一読あれ。
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超映画分析
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映画の精神医学
ここからはネタバレがあるのでご注意を。
あと、いつもの「ぐだぐだ」はあまりない上に、無駄に長いのでご注意を。
スターリングラード
この映画はすごい。久々に良い映画を見た。樺沢さんのレビューを読んでこの映画を見る事にしたので、ストーリーもオチも分かっていたのだが、それでも楽しめた。
テーマに関しては樺沢さんの解説がしっくりくるのでほとんど異論はないが、別の切り口で考えた時に、劇中に出てきた二つの台詞が印象深く残っている。
1.雪山の中では、狼は3年しか生き延びられない。しかしロバは長く生きる。それはロバが必要とされているから。
これは、ヴァシリがターニャを前線ではなく後方支援部隊に戻るように説得する一連の件の中で出てくる台詞だが、実は本作のテーマに大きく関係しているような気がした。
ヴァシリはロシアのプロパガンダ政策の一環として利用されるものの、彼のスナイパーとしての生き方は「祖国のために」というスタンスではない。誰がために戦争に参加しているわけではなく、「気づいたら戦場にいた」という印象を受けざるを得ない。特に冒頭のシーンでヴァシリが鳩が豆鉄砲をくらったような表情をずっと続けているところなどは、「気づいたら戦場にいた」という部分を色濃いものにさせる。さらには話しが進むにつれ、ケーニッヒに勝てる見込みがない、殺される可能性が高いから、自らの防衛手段としてケーニッヒを殺さなければならない、そんな印象すら受ける。
同様にケーニッヒも「祖国のために」というスタンスではなく「息子の仇討ち」という完全に個人的な私怨のみで動いている。つまり、二人はこの時点では「ロバ」ではなく「一匹狼」として戦場に参加している事になる(二人とも国家からは「必要とされているロバ」扱いだが)。
しかし、ヴァシリはターニャと出会う事により、戦争以外の生きがいを見つけられるようになる。
この時点で、ヴァシリは「ターニャに必要とされる存在」、つまり「ロバ」としての自覚を持たざるを得ない状況になってしまった。
ヴァシリの「ロバは長く生きる」というコメントが、後のヴァシリ対ケーニッヒの対決の結末の伏線になっていた気がする。
また、若干まわりくどいのだが、「ロバ=必要とされている=長生き出来る」という事実そのものが反戦に対するメッセージだったような気もする。
人間で必要とされていない人なんぞいるだろうか?いや、ない。人間は全員目的を持ってこの世に生を受けている(「こういう人間は必要ないだろう」という極端で陳腐なコメントは遠慮願います)。
そんな中、特にロシア将軍は「部隊が半分になろうが知らん!お前も行って死んで来い!」などと、人を人として扱わない暴言を多数残している。
人間は生きてこそ人間。生きてこそ人生がある。「死んでこそ人間」という事実は絶対に存在してはいけないはずだ。
しかし実際のところは戦争によってそれがままならなくなっている。「死んでこそ人間」という事実が成り立ってしまっている。この事実を描写する事により、反戦的なメッセージを残しているわけだが、とどのつまり、ヴァシリの「狼とロバ」は、このテーマの伏線でもあったのではないだろうか?
2.There's always rich and the poor (中略) The rich, Love...the poor, Love.
これは劇中最後にダニロフが発したコメント。上記で書いたテーマと同じ。
共産主義者だろうとナチスファシストであろうとユダヤ人であろうと、金持ちだろうと貧乏だろうと、人間、それぞれ考え方も言葉も宗教も思想も身分も生き方も違う。
しかし、どんな生き方をしようとも、そこにはそれぞれの「幸せ」が存在する。
イデオロギーという名の統制が存在したり、共産主義という名の搾取(ロシア将軍の「ウォッカは贅沢品だ。キャビアは贅沢品だ。しかし時間は違う」という台詞が印象的)が存在していた世の中に対する疑問のなげかけだと思う。
人間には幸せを追求する権利がある。それはイデオロギーで統制されるものではない。そんな反戦に対するメッセージがあったのではないだろうか。
「なんで劇中はみんな(イギリス)英語だったの?」など、他にも色々と話しをしたいところはあるが、なんだか面倒くさくなってきたのでやめます(結局ぐだぐだな感じになっちゃったけど)。
地獄の黙示録
大学生の時に一度見て、かなり気に入った作品。
やっぱりコッポラ監督は最高だわね。
(スターリングラードについて書いたら疲れたので内容の詳細は割愛)
ただ、一つだけ言うのであればテーマとしてはスターリングラードに共通するものあり。
ちなみにキューブリック監督のフルメタルジャケットもおもしろいのでお勧め。
地獄の黙示録みたいに、復刻版をもう一回劇場で、なんてのないなかなぁ。
パッション
賛否両論の作品だが、個人的には結構楽しめた。
ただし。
私、個人的には、この映画、かなり思うところアリ。
というのも、私、中学時代をオーストラリアで過ごしたのですが、メル・ギブソンと同じ中学。
キリスト教系の中学だったので、当然「宗教」という授業もあり。
ただ、授業の中で取り扱うのは「旧約聖書に出ている○○さんは○○をした。この人、この時どういう風に考えていたと思う?」という内容で「キリスト教はすごい」とか「神様を信じなさい」といったものではない。むしろ哲学に近い形。キリスト教を信じるも信じないも、こういった話がある。それを個人で考えて、悩んで、その上で自分なりの理解をして、消化しなさい、といった方針だった(と、少なくとも私は思う)。
メル・ギブソンが同じような授業を受け、彼の宗教に対する考えがここで育まれていたと仮定した場合、パッションでの多くの描写に対して「アレ?」と思わざるを得ない、というのが個人的な意見。
例えば、ローマ兵の切り落とされた腕を元通りにするシーンだとか、自分が神の右腕だと言い張るシーンだとか、露骨に「キリスト=神」という描写が多いという点。
キリストの「鞭打ちの刑」であったり「十字架への磔」にしてもそうだが、それが聖書にて描かれているそのままの内容だったとしても、余りにも残酷で「キリストの受難」という点に重点が置かれすぎていて、あたかも監督メル・ギブソンが「キリスト教崇拝者」という印象を受けざるを得ない。
しかし、ここで敢えて逆説を取る。
さっきも言ったように、仮にメル・ギブソンが宗教に対して「中立的なポジション=宗教を自分なりに理解してみなさい」というスタンスなのであれば、このパッションという映画に対しての見解は180度変わる。
まず、回想シーンの中で、キリストが「大工の息子」として立派な机を作り上げる。マリアとのその後の会話も、ごくごく普通な「母親と息子」の会話だった。
「キリスト=神」として認知されている中で、何故このシーンが挿入されているのかがとても気になっていた。しかしごくごく当たり前に考えてみると「キリストも日々の生活を充実しながら生きていた=実は普通の人だったんだよ」という描写になっているのではないだろうか?
十字架を運ぶキリストの身を案じるマリアの姿もそうだ。マリアは単に息子を愛していた母親。それ以外の何者でもないのではないだろうか?
回想シーンの中で、幼少時代のキリストが走って転ぶシーンがある。その中でマリアは、キリストにかけより、心配そうにキリストを抱きかかえる。ごくごく普通に「息子の身を案じる母親」が描写されており、おおよそ「キリスト=神」というテーマには不要なカットだ。
そう考えると、実はメル・ギブソンがこの映画で伝えたかった事は「聖書で描かれているキリストVS実際のキリストはどういう人だったんだろうか?」という解釈も出来る。
また、それをさらに発展させると「聖書」と「キリスト教」に対する疑問や矛盾をこの映画で投げかけているのではないかとも思う。
例えば、今、キリスト教の総本山はバチカン市国だ。バチカン市国はローマ市内の近く、つまりイタリアの中にある。
しかし、劇中でキリストを苦しめるのはローマ兵だ。
鞭打ちのシーンを思い出して欲しい。必要以上に残酷なシーンが描かれ、知性のかけらもないようなローマ兵がキリストの鞭打ちを楽しんでいる。これが単に「キリストの受難」を描いたシーンだとは思えない。受難をテーマに置くだけならば、ここまで執拗に長いカットにする必要はない。
ローマ兵がキリストを殺した。
でもキリスト教の総本山はバチカン市国だ。なんかおかしくないか?
そんな誰しもが多かれ少なかれ抱いている疑問が、強烈に劇中内で炸裂しているような気がする。
ま、あくまでも仮定であって、個人的な解釈なので、そこらへんは予めご了承頂ければ幸いなんですが、尽きるところスターリングラードと一緒で、キリスト込みで「人間生きてナンボ、それぞれの人生がある」という点がテーマなんじゃないかなぁ、と思ってます。
書くの疲れてきたから、ぐだぐだな感じで終わっちゃいますけど。
さぁ、明日からまたぐだぐだな感じに戻しますよ。ネタも溜まってるんで。
でわ。