明後日からハラケンたちとかと沖縄に行ってきます。
楽しみです。
写真とか撮ってきて、またBLOGで公開します。
けんたです。
「優しさなのか偽善なのか」
そんな事をたまに考える。
例えば、普段からお世話になっている女性がいたとして、クリスマスであったり、その人の誕生日であったり、いずれにせよ何かしらのイベントに際してプレゼントを贈ったとする。
実は、行為そのものは「プレゼントを贈る」という揺ぎ無いものなのだが、そういった感情が発生した発端、もしくはプレゼントを贈るという行為に至るまでの過程は「純粋」か「不純」で表現する事が出来ると思う。
例えば、本当に日頃からお世話になっていて、純粋に「ご恩をお返しいたします」という意図でプレゼントを贈るとする。
この場合、贈り手は掛け値なしに相手に喜んでもらいたいだけなので、そのプレゼント購入における発端も過程も「純粋な感謝の気持ち」によって衝動駆られるもので、また、ゴールも「相手に喜んでもらう」なので、それが達成された時点で目的が達成される。つまりは「渡して終わり」、そこから先は原則何もない、ということになる。この行為を「純粋」と定義してみる。
そこで、今度は「不純」な場合を想定してみる。
例えば相手に恋愛感情を抱いていて、打算的な意味合いでプレゼントを贈るとする。この場合のゴールは「相手に喜んでもらう」ではなく、「喜んでもらって、自分のポイントを上げておいて相手と付き合う」がゴールとなる。この目的が掲げられた時点で、プレゼントを贈る発端も過程も全て「打算的」と表現され、世間一般的な価値観から言えば、それは「不純な行為」という風に表現する事も出来る。
ただ、おもしろいのは、いずれの場合も「発端」や「過程」なんかはどうでもいいということだ。「プレゼントを贈った」という既成事実のみが存在し、その行為が「純粋か不純か」は完全に受け手に委ねられているのだ。
何を言っているかというと、
・純粋な動機でプレゼントを贈っても、相手が不信感を抱けば「不純」と捉えられる
・不純な動機でプレゼントを贈っても、相手が心底喜べば「純粋」と捉えられる
ということだ。
つまりは、動機や過程なんかはどうでもよく、タイミング、意図、相手との関係、場所、時間、口調、動作、しぐさなどなど、まさに「プレゼントを渡すその時」がどうであるかが、「純粋か不純」かを決定たらしめるのだと思う。
なんでこんなしち面倒くさい事を書いているかというと、自分の中での葛藤があったからだ。
例えば、純粋な気持ちで誰かにプレゼントをあげようと本能的に思っても、後から理性が付いてきて「あれ、これって何か打算的っぽいな」と思ってしまう事があるからだ。最初は素直にプレゼントをあげようと思っていたのに、後々になってなんとなく納得がいかなくなる。
加えて、プレゼントを渡した後も「俺って打算的にプレゼント渡したって思われてないかなぁ」なんて、妙に気になったりする事もある。
あとは、最近結婚した会社の同僚(女性)も同じような事を言っていた。
ご飯を食べた後にゆっくりしていたら、ダンナが皿洗いを始めたのね。で(あぁ、悪いな)と思って、「あぁ、ごめんね」って言ったら、「いいよ、今日は俺がやるよ」って言われたの。その後「ありがとう」って言って皿洗いは任せたんだけど、その「ありがとう」っていう言葉は、純粋な気持ちで言ったのか、それとも、何かもやもやした気持ちで言ったのか。ここがなんとなく微妙で紙一重なんだよねぇ。
と。
やっぱり「もしかしたら自分は偽善的な事を言っているのかも」という葛藤は誰しもが多かれ少なかれ考えているのではないだろうか。
と、それはそれとして、ただ、このまま葛藤を抱えておくというのもあまり精神衛生上よろしくない。
そこで考えて考えて考えて一つの結論を導出するに至ったわけなんです。
まぁ、いいよ!適当だよ、適当!
細かい事は気にしない!
なるようにしかならないよ!
えぇ。そうなんです。
見事なまでにいつも通りの結論なんですよ。
なので、プレゼントをあげる時は、プレゼントそのものも去ることながら、相手が喜ぶような渡し方をして、もらう側も送り手が喜んでくれるようなもらい方をしましょう。
(久々にまともな意見)
しかしなんですか。
「けんた、誰かにプレゼントあげる予定でもあるの?」と聞かれそうな雰囲気なんですが、残念ながらそこらへんは全くと良いほど何もないんですよね。
ただ、ボクはプレゼントのもらい方はかなり上手いと思いますよ。
なので、プレゼントあげて喜びたい人は、ボクにプレゼントをあげると良いと思います。
よろしくお願いします。
楽しみです。
写真とか撮ってきて、またBLOGで公開します。
けんたです。
「優しさなのか偽善なのか」
そんな事をたまに考える。
例えば、普段からお世話になっている女性がいたとして、クリスマスであったり、その人の誕生日であったり、いずれにせよ何かしらのイベントに際してプレゼントを贈ったとする。
実は、行為そのものは「プレゼントを贈る」という揺ぎ無いものなのだが、そういった感情が発生した発端、もしくはプレゼントを贈るという行為に至るまでの過程は「純粋」か「不純」で表現する事が出来ると思う。
例えば、本当に日頃からお世話になっていて、純粋に「ご恩をお返しいたします」という意図でプレゼントを贈るとする。
この場合、贈り手は掛け値なしに相手に喜んでもらいたいだけなので、そのプレゼント購入における発端も過程も「純粋な感謝の気持ち」によって衝動駆られるもので、また、ゴールも「相手に喜んでもらう」なので、それが達成された時点で目的が達成される。つまりは「渡して終わり」、そこから先は原則何もない、ということになる。この行為を「純粋」と定義してみる。
そこで、今度は「不純」な場合を想定してみる。
例えば相手に恋愛感情を抱いていて、打算的な意味合いでプレゼントを贈るとする。この場合のゴールは「相手に喜んでもらう」ではなく、「喜んでもらって、自分のポイントを上げておいて相手と付き合う」がゴールとなる。この目的が掲げられた時点で、プレゼントを贈る発端も過程も全て「打算的」と表現され、世間一般的な価値観から言えば、それは「不純な行為」という風に表現する事も出来る。
ただ、おもしろいのは、いずれの場合も「発端」や「過程」なんかはどうでもいいということだ。「プレゼントを贈った」という既成事実のみが存在し、その行為が「純粋か不純か」は完全に受け手に委ねられているのだ。
何を言っているかというと、
・純粋な動機でプレゼントを贈っても、相手が不信感を抱けば「不純」と捉えられる
・不純な動機でプレゼントを贈っても、相手が心底喜べば「純粋」と捉えられる
ということだ。
つまりは、動機や過程なんかはどうでもよく、タイミング、意図、相手との関係、場所、時間、口調、動作、しぐさなどなど、まさに「プレゼントを渡すその時」がどうであるかが、「純粋か不純」かを決定たらしめるのだと思う。
なんでこんなしち面倒くさい事を書いているかというと、自分の中での葛藤があったからだ。
例えば、純粋な気持ちで誰かにプレゼントをあげようと本能的に思っても、後から理性が付いてきて「あれ、これって何か打算的っぽいな」と思ってしまう事があるからだ。最初は素直にプレゼントをあげようと思っていたのに、後々になってなんとなく納得がいかなくなる。
加えて、プレゼントを渡した後も「俺って打算的にプレゼント渡したって思われてないかなぁ」なんて、妙に気になったりする事もある。
あとは、最近結婚した会社の同僚(女性)も同じような事を言っていた。
ご飯を食べた後にゆっくりしていたら、ダンナが皿洗いを始めたのね。で(あぁ、悪いな)と思って、「あぁ、ごめんね」って言ったら、「いいよ、今日は俺がやるよ」って言われたの。その後「ありがとう」って言って皿洗いは任せたんだけど、その「ありがとう」っていう言葉は、純粋な気持ちで言ったのか、それとも、何かもやもやした気持ちで言ったのか。ここがなんとなく微妙で紙一重なんだよねぇ。
と。
やっぱり「もしかしたら自分は偽善的な事を言っているのかも」という葛藤は誰しもが多かれ少なかれ考えているのではないだろうか。
と、それはそれとして、ただ、このまま葛藤を抱えておくというのもあまり精神衛生上よろしくない。
そこで考えて考えて考えて一つの結論を導出するに至ったわけなんです。
まぁ、いいよ!適当だよ、適当!
細かい事は気にしない!
なるようにしかならないよ!
えぇ。そうなんです。
見事なまでにいつも通りの結論なんですよ。
なので、プレゼントをあげる時は、プレゼントそのものも去ることながら、相手が喜ぶような渡し方をして、もらう側も送り手が喜んでくれるようなもらい方をしましょう。
(久々にまともな意見)
しかしなんですか。
「けんた、誰かにプレゼントあげる予定でもあるの?」と聞かれそうな雰囲気なんですが、残念ながらそこらへんは全くと良いほど何もないんですよね。
ただ、ボクはプレゼントのもらい方はかなり上手いと思いますよ。
なので、プレゼントあげて喜びたい人は、ボクにプレゼントをあげると良いと思います。
よろしくお願いします。