西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ベートーヴェンとハイドン

2008-01-14 20:46:34 | 音楽一般
ベートーヴェンは、ハイドンに弟子入りを許可されウィーンへと旅立ったのだった。1792年11月10日のことで、ベートーヴェンは間もなく22歳を迎えるころで、師となるハイドンはこの時ちょうど60歳であった。ハイドンの教授法はどのようなものであったのか。ベートーヴェンに対位法の指導をしたということで、その課題の練習の成果が250作ほど残されているが、こまかな加筆などは見られず、ベートーヴェンは不満を抱くようなものであったようだ。ワルトシュタイン伯爵から「絶えざる熱意を持ってハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取り給え。」と押し出されてウィーンに来たはずなのだが、どうもハイドンはあまり丁寧に教えてくれていないと思ったのだろうか。1年ほど経った時、ハイドンは再びロンドンに発つことになったので、ハイドンから教わることは自然解消してしまった。ハイドンが第2回のロンドン旅行に出発したのは1794年1月19日のことだった。ハイドンに教わっていた時、実は同時にもう一人の先生ヨハン・シェンクという作曲家にやはり対位法を教わっていた。この先生にも1年足らずで教わるのをやめ、イタリア人オペラ作曲家アントニオ・サリエリ(なぜかモーツァルトを殺したという噂が立っている人です。もし本当ならベートーヴェンはその後に教わったことになります。)に声楽・劇音楽の指導を受け、次いでヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに学んだ。このアルブレヒツベルガーからは、対位法・フーガなどを学んだということであるが、有益なものだったようで、アルブレヒツベルガーへの敬意はその後も長く持っていたということである。
ハイドンは1795年8月末にウィーンに帰ってきた。ベートーヴェンは、この年は大きな飛躍の年で、自作のピアノ協奏曲第2番を3月29日に自演し、これがウィーン・デビューとなった。「満堂の喝采を浴びた」と新聞は伝えている。師ハイドンにはこの演奏会を聴いてもらえなかったが、ベートーヴェンは、ハイドン帰国後、貴族の邸でハイドンの前で3曲のピアノ・ソナタを披露した。ベートーヴェンが生涯に渡って書いた32曲のピアノ・ソナタの最初の3曲である。ベートーヴェンはこの3曲を作品2の番号を付け、ハイドンに献呈し出版した。これをもってベートーヴェンは師ハイドンに報いたのだった。

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