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西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ウィーン留学まで

2008-01-13 10:00:33 | 音楽一般
ベートーヴェンが18歳を迎えた1789年は隣国フランスは大きな歴史的事件があり、それがボンにいるベートーヴェンに何らかの影響を及ぼさなかったとは言えないだろう。この5月に入学したボン大学にはストラスブール・ジャコバン派の指導者であるシュナイダー(後に恐怖と残酷を広めたという理由で断頭台上で処刑される)が教授としていたし、またシラーやゲーテなどの思想にも触れたことだろう。後に「第9交響曲」の終楽章で歌われることになるシラーの「歓喜に寄す」に触れたのも、シラーの友人であるフィッシェニヒが92年にボン大学に招かれた時のことであろう。
1790年2月20日に、現ケルン選帝侯であるマクシミリアン・フランツの兄に当たる神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世が亡くなり、ベートーヴェンは「皇帝ヨーゼフ二世の死を悼むカンタータ」の作曲依頼を受ける。また同年10月9日の新皇帝就任に際しても「皇帝レオポルト二世の即位を祝うカンタータ」の作曲を依頼された。しかしこれらは共に演奏されることはなかった。演奏における困難さがその理由とされている。
91年には、3月6日(日)にバレー音楽《騎士バレー》をボン宮廷の仮面舞踏会で上演するがこれはワルトシュタイン伯爵の代作として発表された。そして9月には、選帝侯とともにボン宮廷楽団のビオラ奏者としてメルゲントハイム、アシャッフェンブルクへの旅行に出る。ビュルツブルク城ではドイツのバロック建築の代表作の一つである司教の館を目にし、またそこではイタリアの画家ティエポロの傑作の壁画を見て驚きの声をあげたことだろう。1ヶ月にも及ぶこの旅行はいろいろな体験をもたらしたことだろう。
92年7月はじめ、ハイドンがロンドンからウィーンへ帰る途中再びボンに立ち寄った。このとき、ベートーヴェンはハイドンに、先の演奏されずに終わった「追悼カンタータ」を見せ、弟子入りを許されたということである。
ウィーンに立つ時、友人たちはベートーヴェンに餞の言葉を送った。その中にウィーン留学に尽力したワルトシュタイン伯爵の言葉があった。
「親愛なるベートーヴェンへ
 あなたは以前から望んでいた願いを実現しようとウィーンへ立たれる。・・・絶えざる熱意を持ってハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取り給え。
 ボンにて 1792年10月29日
 あなたの真の友 ワルトシュタイン」
11月2日早朝に駅馬車でボンを発ち、途中コブレンツ付近でフランス革命軍とドイツ軍が砲火を交える中を掻い潜り、ウィーンへは11月10日に無事着いたのであった。

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