稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

一刀流、陰の構え

2017年12月16日 | 剣道・剣術
一刀流の構えには架九品(かけきゅうひん)の構えがある。
敵から当たるところも敵を切るところも、
天地四方四隅、すなわち八方に中を加えた九方である。
この構えは敵の構えによって千能万様(せんたいばんよう)に対応する。

1.陰
2.陽
3.正眼
4.上段
5.下段
6.本覚
7.霞(中、下、上)
8.脇構
9.隠剣

笹森順造「剣道」より陰の構え
-------------------------------
左足前にして、しないを右斜め前に垂直に傘を持ったように立て、左前腕を水平にとり、
左手にて柄頭を握る。なぜこれを陰の構えというかといえば、人は北に立って南に向かい、
旭日の出る方は左で太陽のかげは右である。ゆえに右脇にしないを立てた構えを陰の構えと呼び、
左の方に構えたのを陽の構えと呼ぶ。またすべて心と技の蔵(ぞう)せられた方を陰という。
この陰からは単に右から左に相手の技を払うばかりでなく、
ここに蔵(ぞう)せられた技はいかようにも働き出るものである。
-------------------------------

陰の構えは現代剣道の八相の構えに当たるもので、竹刀剣道ではほとんど使わないが、
日本刀を持っての真剣勝負においては、多数の敵を制し、攻防自在で、
かつ日本刀を扱う上で、疲労の少ない極めて実戦的な構えである。


(八相の構えと違い、刀を垂直に立て、左腕を水平に構えるのが陰の構えの特徴である)

上の写真は私の16年前の陰の構えと今年の陰の構え。
手の握り、安定感など、ずいぶんと変化し成長したように思える。
おそらく体幹を意識した剣道稽古で、姿勢やバランスが改善されたことも大きいと思う。

髪の毛は少なくなりましたけど・・・




2023年10月3日追記
長正館ホームページから「一刀流架九品の構え」
http://doujyou.net/choseikan/kakekyuuhin.html
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昨夜の稽古(木曜会)

2017年12月15日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
木曜会としての9回目の稽古。

審査が終ったので、再度、基本稽古を中心とした内容になる。
ここでの基本稽古は本当に貴重である。
ただ自分の道場で再現したいが再現できない内容である。
(再現するには全体の理解と合意、そして双方ある程度の技量が必要なのだ)

まずは面を着けずに2人一組で、
打突の際に、右手を左手付近までずらす方法での摺りかぶりで正面打ち。
右手の力が強すぎる者はこの方法で矯正出来るそうだ。
まさに「待ってました!」の稽古。師匠に感謝。
右手が強いと速く打とうとすればするほど遅くなるのだそうだ。

実はこの打ち方は先週もやったのだが、振り下ろした時に左肘が伸びてしまい、
両手を伸ばした状態での打ちになり、実際の稽古ではしっくりこなかったのである。

昨夜はその疑問が解けた。
振り下ろした時に、左拳は水月まで下げるのだ。左肘は少し曲げている。
(うまく行かなかったのは左拳は胸付近で止まっていた)
これで右手の力を抜いて打てる基礎地が出来た。
結局は普通の素振りで右手だけユルユルに手前にずらすということだ。
あとは意識して普段の稽古で実践するのみ。

次は3人一組。のびやかな切り返しと呼吸法の切り返し。
まず、打ち間からの「ゆーくりー」の正面打ち。
つぎ、蝕刃の間から一足一刀の間に入って、右足出しての正面打ち。

繰り返し説明を受けたのは、入る時には攻め入るのではなく「ただ入る」ということ。
実はずっとずっと「攻め入る」ばかりしていて強引に面に飛んでいた。
「攻め入る」と相手は警戒して絶対に打たせてはくれない。

舟を漕ぐような一歩の入り方も教えていただいた。
これは密かに研究してみることにする。

また別の説明で、
相手が狙っていた場合に「ただ入る」をしたら、
すかさず面に乗られて負けてしまうという説明も受けた。

実はこれ、最近の私が相手に打たれる大きな要因でもある。
試合巧者は打ち間も遠いのでどこまでどのように入るかが難しい。
相手がどういうタイプかよく見ることも重要である。

注意されたのは、構えてる時にリズム(拍子)を取る人。
リズムを取ると相手と合気にならない。

姿勢気勢を意識してしっかり構える。
しっかり構えるから相手を動かすことが出来る。誘いも出来る。

後半は一足一刀の間から、剣先少し浮かす、相手の左目を攻める、
拳を攻めるの3方法で、正面打ちを繰り返し稽古した。

最後は1分半の地稽古。
ここでは同門同流同士なので気持ちの良い稽古が出来る。
でもお互い、相手の手の内がわかっているのでなかなか決まらない。
面白いのは「誘い」がわかるので本当に剣先で会話してる気になることだ。
1分半だと集中して稽古出来る。4人の方と稽古して終了。
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昨夜の稽古(長正館)で気のついたこと

2017年12月14日 | 剣道・剣術
本日、連続投稿になります。

昨夜は矢田中学校体育館での長正館の稽古。
稽古人数は最終的に8人だった。

気のついたことのみ書く。

1)左足の引き付け
弟子(勝手に弟子と呼んでます)の中学生。
すっごく良くなったのだが右足の踏み込みと打ちが一致しない。
打った時はまだ空中に右足がある。自然、左足の引き付けも遅れてしまう。
つまり気剣体の一致が出来ていないのだ。

打った時に右足が空中にあると何故いけないのか?
1本になる場合もあるし別にいいんじゃない?という意見もある。

いやしかし考えて欲しい。
相手が防いで次の打突の必要のある場合、
空中に右足があったら新たな技など出しようが無い。
打突をした瞬間に右足が着地していて、ほぼ同時に左足が引き付けられている。
だからこそ次の技が出せるのである。当然、防御にも即応出来る。

これ、実はわが師匠の連続技を見ていてなるほどと思ったこと。
面が外れても、追い込んで2本目3本目4本5本もパンパンパンパンと打ち込んでいく。
小手面などもすばらしいスピードと安定感で打ち込んでいく。
このスピードも安定感も、打ち込んだときの右足の着地、瞬時に引き付けた左足があってこそだ。

古流のある流派は左足の引き付けをしないという。
おそらくこれは古い流派で、合戦の場で鎧を身につけた状態での古流の剣術(介者剣術)の名残だと思う。
鎧をつけていれば鎧が身を守ってくれるので多少足運びが遅れても問題は無い。
それに重い鎧は足幅を広くし安定して戦う必要があるからだろう。


(勢いのある打ちだが、打ち込んだ時、右足はまだ空中に高くあり左足は残っている)

本人は悩んでいて「左足の引き付けが遅いんですか?」と聞いてきたが、
「いや、左足の引き付けより、右手と右足が連動していないほうが問題なんだよ」と言い、
摺りかぶりからの一挙動の面打ちを説明し、自習するように奨励指導しておいた。

ちなみに摺りかぶりからの面打ちは右足はぎりぎりまで床面を滑り、最後の最後にポンと床を叩く感じ。

2)打ったあと万歳してしまう
打った後に両手を上げて万歳してしまう打ちは出来るだけしないほうが良い。
出来るだけというのは、中高生の試合において、打突をアピールしようとして、
ことさら万歳姿勢を取る者が多いせいだ。数には勝てない。(笑)

勝手に【万歳姿勢の定義】
-------------------------------------------
打突後、左拳の位置が肩よりも上がってしまう
打突後、右拳より左拳が前にいってしまう
打突後、両肘が伸びきって竹刀が直立してしまう
-------------------------------------------


(昨夜の稽古で、打ったあとの万歳姿勢)

万歳するわけは、前傾姿勢のまま打っていき、打突後に左肘が伸びきってしまうせいだ。
前傾姿勢は打つ起こりが見え易いので直したほうが良いがそれはさておき、
左肘が伸びきってしまうと次の技が出せないのが自分的には一番問題と思える。

試合ばかりしている団体では万歳姿勢を推奨しいているところもあるが、
打突時の安定感も無くなり危険なのと、次の技が出しづらいので長正館では否定したい。
(万歳中に押されて転倒して頭を打った事例を過去に見たことがある)

ただし、打ち抜けて、振り向くときの一時的な万歳姿勢は否定はしない。
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剣道講和(敬老の日に話した内容、年不明)- 5/5

2017年12月14日 | 長井長正範士の遺文
いったい人間は剣道に限らずあらゆる分野でいつも向上しようと努力している。
これが次々とその望みが満たされていく時、そこに喜びがある。
特に心身ともに体を使って汗を流し優勝した時には他に無い感動がある。
こうして人間的成長が心の喜びとなって現れてくる。

その反対に満たされない時は悩みが生じるのである。
故に自分の能力や性格について消極的に考えすぎないこと。
考えすぎは自分を自分で縛っている事になるから進歩は無い。
むしろ積極的に考えている人の方が成長している。
従って我々は剣道によって、自分や相手のために活かす徳
(品性=品格)を養っていかなければならない。

これには相手に対し「広い心」を持つということ。
この眼に見えない「徳」こそ無形の財産なのである。
そしてこの徳をもって、いろいろな力関係を調和させ、
人間の本当の生き甲斐や幸せを実現してゆかなければならない。
この徳を養うために我々は剣道を修行するのである。
徳は永遠に栄えるが力で立つ者は力で滅び、金で立つ者は金でいつかは滅んでいくであろう。

以上で剣道は心身の鍛錬であるという一例を述べたが、
このようにして心身一如の修行をするならば、
必ずや愛国精神に目覚めた立派な日本人として成長し、
広く世界の人類の平和繁栄に寄与し、やがては世界の人々から
尊敬と信頼されるような立派な日本人となるであろうと信じる。
以上。

(大阪府剣道道場連盟副会長 長井長正)


(昭和45年8月27日、大阪万博会場にて、左端は大剣連事務局長の高見範士)
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剣道講和(敬老の日に話した内容、年不明)- 4/5

2017年12月13日 | 長井長正範士の遺文
こうした心がけで稽古すると以心伝心必ずや相手も同調し息の合った稽古が出来るものである。
それを打った当たったと、ことさらに相手に意思表示し、
残心どころか逆にオーバーな動作で押し付けるように示し、
一時、稽古を中段するごときは相手の心にキズをつけ、もはや剣道から離れ、
単なる暴力に過ぎないことを自覚せねばならない。

もっと剣道を真剣に考えることが大事である。
残心は以上のような立派な稽古の流れの中にスムーズにとどまることなく行われていくのである。
即ち技と技との間の心がけが残心であり、
残心があればこそ中途半端な技に留まらず次への技へと淀むこともなく対応する事が出来る。
これを古流の形で体得して欲しいものである。

さて稽古終了せば相手を打太刀と心得、蹲踞も従い、感謝の念を抱きつつ納刀する。
打太刀の立つに合わせて立ち、後へ下がるにしても合わせ、そうして礼をするのである。

審査なら上座に二人呼吸を合わせ、一緒に礼をし、同じく退場する。
座して静かに面を取り、お互いに有難うございましたと礼をすることは当然であろう。
この感謝の気持ちの中に湧くものは正しい判断の反省と、次の稽古への新たな希望が生まれ、
人間的に益々向上するものと信じる。

(続く)


(昭和45年6月、長正館にて少年指導)
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昨夜の稽古(なんば養正会)

2017年12月12日 | 剣道・剣術
昨夜は久々の養正会。
18時に仕事が終るので、後片付けして15分に出発。
阪神高速13号線、中野から湊町まで。
いつも中野から長田、高井田を過ぎるまでは渋滞している。
近畿自動車道からの流入があるのと料金所があって、
おまけに少しアップダウンとカーブがあるので慢性化してしまうのだ。
もう一車線は必要と思うがそんな計画は無さそうだ。
高速に乗ったものの、渋滞に巻き込まれ、着いた時には稽古が終わってた・・・
ということも過去には何度かあった。あれは稽古より疲れる。

さて稽古。

遅れて行ったので基本稽古には間に合わない。
基本稽古の最後の回り稽古(立会い稽古)には4回あるうち2回だけ参加。
初段の方と、五段のOさんと。
そのあとは自由稽古。

Y六段に始まり10人ぐらいの方と稽古が出来た。

昨夜の課題は「右手の力を抜くこと」これのみ。
竹刀を中指で握ったり薬指で握ったり、ともかく人差し指と親指は握らない。
打つと確かに速くなったような気もするがぎこちないのも確か。
力の抜き方がわからない。いっそ全部の指を握らないでやってみようか。
しかし夢中になると右手で押えこむような打ちになってしまう。
「打ち負けないぞ」という気持ちが起きるとどうしても力が入ってしまう。

まあすぐには矯正は無理だが意識して直していくつもりだ。
あきらかに自分より下の段の者と稽古する時間は、指導も大事なのだが、
自分の悪いクセを直す大切な稽古時間でもある。
大事に取り組みたい。


(着替えて道場に入ったら、基本稽古の最中だった)


(居残り稽古の剣道形、O七段が指導)
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長正館の壁掛時計

2017年12月11日 | 剣道・剣術

(2017年4月、一刀流の稽古を見おろす壁掛時計、実に40年間、この位置にあった)

今年の8月はじめ、誰も引き取り手が無かったので、
長正館の壁掛け時計は自宅に引き取っていた。

大きな丸い時計には「長正館長 長井長正 範士受賞記念 平野剣道協会」
と手書きの金文字で書かれてある。直径は底部で42センチ、けっこう大きい。

範士授与は昭和52年(1977年)だから、40年間、長正館の稽古を見つめてきた時計である。
すでに外枠のメッキは錆び付いているがそれでも正確に時を刻んでいる。

ふと思いついて、昨日、ホコリを払って自宅の寝室に架けてみた。
古びているのに加え不釣合いに大きく、デザイン的にも寝室に不向きで不評である。
やはり自宅で使うには無理があるようだ。

どなたか使っていただけるなら喜んでお譲りしたい。
( m.kasui@nifty.com にお問合せください )


(下に写っているのが今まで架けていた時計)


(平野剣道協会さんは、長正館から移籍した者もいて付き合いが長く深い関係である)
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昨夜の稽古(宝剣会)

2017年12月10日 | 剣道・剣術
昨夜は生駒の宝剣会(ほうけんかい)の稽古納めだった。

東住吉での一刀流の稽古を早退し高速で生駒まで。
さいわい大きな渋滞も無く間に合った。
石丸師範は奈良の剣道界の集まりで欠席。
おそらく11月の審査で八段に合格された濱田英徳先生のお祝いか。
着替えて待っていると大阪のM八段が来られた。
M八段、火曜日に大阪の剣連でお会いした際に「稽古に来て下さいよ~」と
お願いしたら「今度の土曜日に行かせてもらいます」とお返事された。
バリバリ若手の八段先生と稽古出来る機会などそうないので楽しみにしていたのだ。

稽古には東生駒剣道クラブのIさんも参加。合計5人。
M八段には最初に掛からせていただいた。

気持ちは審査。もちろん八段審査である。
礼から3歩前進、蹲踞し、合気になって立ち上がる。
精一杯の気合を出し一歩入って蝕刃の間、ここまでは互角だ。

交刃の間からが難しい。攻め足探り足、まったく動かせない。
M八段は不動の構えである。動かざること山のごとく静かなること林のごとく。

攻め足で自分の打ち間に入るか否か、動かないM八段に面に飛ぶ。
それを見事な返し胴で捌かれる。

初太刀のあとは、相面、相小手面のみで勝負を挑む。
攻めが効かないので返し胴は打てない。
というか、返し胴を意識するとほんの少し心に「待ち」が生まれる。
今回の稽古に、待ちの気持ちは一切あってはならない。

いずれの相面も相小手面もM八段には及ばない。
打つ機会は間違っていないと思うのだがその上を乗られる感じ。
M先生の手首の効きは素晴らしく冴えのある打ちを何本もいただいた。

しかし気持ちの良い稽古だ。
2回ほど打ち気を外された場面もあったがあとは合気にしていただけた。
1本だけだが出小手も打たせていただけた。
合気の稽古とはこういうものか。
打たれても本当に気持ちが良い。

あとはA七段、N五段、O四段、I二段と稽古。
以前からの課題、少し遠間からの一拍子の面打ちを意識して稽古した。

終了後にM八段に挨拶に行く。
「右手が強いので冴えが無くなっている」とのこと。
なるほどなるほど。じつは右手の件は前から悩んでいたところ。
六段の頃、師匠(S八段)に握りを矯正され、かなり改善されたのだが今でもまだ右手が強い。
右手が強いとスピードも落ち冴えも無くなる。これは今後の大きな課題だ。

課題の再認識という意味でも昨夜の稽古は実に良い稽古だった。
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剣道講和(敬老の日に話した内容、年不明)- 3/5

2017年12月09日 | 長井長正範士の遺文
攻防打突の間の足の運びで特に留意すべきは、前後は古流に習って歩み足のこと。
基本はあくまで送り足ではあるが、これにこだわらず昔、真剣勝負の時、
相当離れた距離から走っていって生死の間で勝負を決めた。
また、数合い渡り合って死闘をやった時の足使いは主に走り足か歩み足であり、
一刀流の組太刀はみな走り足と歩み足で形が構成されている。

ただ斬撃の瞬時は右足右手前であることは当然であるが、
そこまでの動きは歩み足が自然であり、後ろに間をとるにしても、
前の右足から下がり左足右足と交互に下がる動作が多いのである。
もし前の右足を後に引いた時、相手が正面を打ってきた時は、
前に残った左足を軸に身体を斜め右にひねって、
相手の打ち出す右小手の隙を打つことが出来る。

これは相手の真線上から、我は僅かに左に逸れるからで、
真剣勝負の相打ちの面であっても、歩み足から生じる腰の捻り
(右足軸に腰を左に捻ると同時に後の左足を右足の後ろに瞬時に移動)で
逆に面を打つことが出来る。

心は既に打ちたい勝ちたい打たれたくないという我が心を切り落としている。
この心、即ち「剣身」が思わず打って出て勝を制するのである。

(続く)


(昭和45年4月9日、国際親善大会、万博会場にて)
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昨夜の稽古(木曜会)

2017年12月08日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)
木曜会としての8回目の稽古。(11月23日と30日は稽古無し)

風邪をひいたのか朝から寒気がする。
で、暖房を強めにして、ジャンパー着込んで、毛布のひざ掛けをして、
休みやすみしながら仕事をしていたのだけれど太ももなどが寒くて仕方が無い。
咳もとまらないので今夜の稽古は休もうかな・・・と夕方まで思っていた。

しかし木曜会の稽古は欠かせないので行くだけ行ってみた。
激しい稽古になれば抜け出せば良いだけのこと。
見ているだけでも勉強にはなるからだ。

懸念は無用だった。
ほぼ1時間、切り返しのほかは「ゆーくりー」の基本打ちだった。
ありがたい。風邪気味にはちょうど良い運動量だ。

打ち間(思うより近い)から一拍子の面打ち。
これを「ゆーくりー」の掛け声で打ち込むのだ。
昨夜は六段2名が相手で3人組。3本ずつ延々と打ち込んだ。
大きく振りかぶっても良い。体幹がブレないことが大事なのだ。

途中で注意される。
振り下ろす時に左拳が顔の中心付近までしか降りない者がいる。
左拳は鳩尾付近まで下がる打ちが正しい。
(と言って、先に左拳が下がりすぎると右肘打ちになってしまう)
また別に、左の腕が充分に伸びていない者もいる。

矯正するために振り下ろす途中で右拳の力を抜いて左拳にくっつける打ち方をする。
右拳はほとんど握っていないので左拳だけの打ちになる。
あたかも竹刀の重みだけで自然と落ちていくような打ちになる。
この打ち、当たった瞬間も気持ちの良い伸びのある打ちになるのがわかる。

最後は左拳の振り上げを目元口元までで打ち込む。

この「ゆーくりー」の基本打ち稽古は単純だが奥が深い。
約1時間、100本以上も打ち込んだが、師匠のような打ちは出来なかった。
まあ満足出来るかな?と思うような打ちが4~5本あっただけだ。
自分の道場でやろうにも理解する相手がいないのでなかなか出来ない。
こうした基本打ちこそ重要なんだとは理解している。
体幹のブレ、あと足首や手首の固さが自分自身の悪いところだと思う。


(終了してからも師匠の指導は続く、横で聞いているだけでも勉強になる)

木曜会のメンバーで六段合格者が2名出た。
やはりここでの稽古が実を結んだのだと思う。

補足・・・

途中で師匠からいかに構えが大事かのお話を聞いた。
不動の姿勢から相手の打つ気を捉えて間髪入れずに一拍子の打ちを放つ。
いいなあ、格好いいよなあ、あこがれるなあ。。。頑張ろう!
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剣道講和(敬老の日に話した内容、年不明)- 2/5

2017年12月07日 | 長井長正範士の遺文
大自然は陰陽の二つからなっている。
大自然から生まれた剣道だから、陰陽、プラスマイナス、前に攻め後ろへ間を取り、
左右の足捌き、力を入れる抜く、強弱、位、上下の礼、攻撃防御等、絶えず表裏一体となった
二つの調子が狂わぬよう精進していくところに心身の鍛錬の意義がある。

ただ単に剣道は心と身体の鍛錬だと思っていては剣道に対する考え方が甘いと言わねばならない。
心身一如で剣を交えて人格を作り上げていくのが剣道である。
これが大事な呼吸につながる。打ち間に入る時はスッと息を吸う。
逆に相手が先に出て、打っては来ないだろうか?とか、攻められ迷った時は瞬間トメ息をする。
トメ息は1秒以内。下腹から中腹まで力を入れ、必ず竹刀の先は相手の咽喉に付けておく。
トメ息は心が落ち着く。

息を吐いて打つ。息を吸ってスッと入る。息を止める。
吐き息、吸う息、止め息等で、相手と呼吸を合わせて心身を鍛錬する。
私の先師、吉田誠宏先生は、この上に「含み息というのがあるんだ」と教えられた。
吉田老八十五才の時である。
「もう俺ぐらいになると呼吸をしているかしていないか無心に近い、
ただ打ちの出た瞬間、含み息で打っている、
この含み息というのはわずかに口の中に残っている空気をフゥッと出して打つだけだ」と。

相手の打ってくる時の隙を打つのである。
誰でも打っていく時に隙が出来る。その隙を打つのである。
攻めて隙を作らせて打つのはまだ浅い。隙も無いのに自分の調子や習慣で、
あるいはスピードに任せて打って当てたり、だまし討ちなどするのはもっと浅いと心すべきである。
古歌に「剣先をむやみやたらに振る人は、やがては自分の調子にて打つ」というのがある。
良い教訓だと思う。
吉田老は「相手の隙に誘われて思わずそこへ打って出た、これが本物の剣道なんだよ」と教えられた。

(続く)


(吉田誠宏先生、昭和51年1月11日、聖和道場にて)
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剣道講和(敬老の日に話した内容、年不明)- 1/5

2017年12月06日 | 長井長正範士の遺文
九歩の距離で礼をする時、乗り身(相手に乗っている)の心境となる。
相手が礼をするから呼吸を合わせこちらも礼をする。
帯刀するからこちらも帯刀する。
三歩前進するから前進する。
蹲踞するから蹲踞するのである。

蹲踞の重心は下腹。立つ時は相手に呼吸を合わせてながらゆっくり立つ。
下腹に力を集中し堂々たる正眼の構えで腰を入れる。心は正しい誠の心。
「さあこれから攻めて打ってやろう」とか、
審査なら「審査員に良い格好を見せよう」としてはならない。

気合は下腹から出す。気を養い精神統一し攻めの集中力を高める。
打とうとか打たれまいという我が心を切り落とし無心に入るためである。
もし相手が先に掛け声を出したら、
その気合の終るか終らないうちにスカサズこちらから迎えるように気合を出す。
これを威声という。ここの所が大事で、先に攻めて相手が先を起こさすようおびきよせ、
その先に来るところの先を打つ。

次に攻め。一刀流では剣先で相手の鍔拳を攻めるのである。
この時点ではまだ打とうという気を起してはならない。
打とうという気無しにスッと打ち間に入る。
その時、軽く息を吸って、今まで臍下丹田力を入れていた力を抜く。
力を入れるだけを知っていても駄目で抜くことも知ることが大事である。
力が抜けていると、身体は瞬間、柔らかく軽くなり、ハッとした瞬間に技が出る。
小手打ちは咽喉から発声し肉体の他の部分は力を抜く。
面打ちは水月(みぞおち=幅広い解釈では胸)から発声する。
即ち心(水月)をもって相手の心を打つのである。
突きの発声は下腹から行う。

(続く)


(昭和45年4月、長正館にて)
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長正館の忘年会

2017年12月05日 | 剣道・剣術
数日経ってしまったが、2日の土曜日は長正館の忘年会だった。
17時から1時間、一刀流の稽古をして、着替えて大池橋の味園まで。
差し入れの一升瓶2本も飲み干し遅くまで大騒ぎしてしまった。
集合写真は野村理事からいただいたもの。
(私のはマニュアルレンズで酔ってたのかイマイチうまく撮れなかった)






(野村理事撮影分)


(野村理事撮影分)

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スーパームーンの撮影

2017年12月04日 | 写真・カメラ
昨夜はスーパームーンだと言うので200mmの望遠レンズで月を撮ってみた。
家の玄関から出て、門の上にカメラを半乗せして撮ったのだ。

月の撮影は模様がハッキリ写る頃合いが難しく、
ISO感度やシャッタースピードを変えて何枚か撮った。
それでも露出オーバー気味なので加工ソフトで少し暗くしてみた。

本当の満月の瞬間は日付が変わって4日の0時47分だそう。
その頃は残念ながら寝ている時間だ。


(SONY-NEX-6、12月26日22:26撮影、f6.3、1/200秒、ISO-100、半固定手持ち撮影)

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長井長正「剣道是藝術について」昭和58年4月

2017年12月03日 | 長井長正範士の遺文
「剣道是藝術について」昭和58年4月
藝術は美を表現する活動であり、永久に生命を保っている。
藝術は天地の総合したものであり、陰と陽の二つからなっている。
故にこの陰と陽との二つの調子が狂うと藝術とは言われない。
剣道が世相に合致したものである以上、剣道も亦、藝術につながらなくてはならない。
剣道の姿勢、打ちの態度等すべてが相手に対し美の表現でなければならない。
打ちには美が最大のものであり、わざの表現の仕方が美につながってゆかなければならない。
即ち剣道こそこれ藝術なり。と言う所以である。


(昭和46年4月11日、長正館にて一刀流の演武)
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