稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

稽古メモ(往馬玄武会)12月23日

2017年12月26日 | 剣道・剣術
23日の往馬玄武会での指導メモ。
(指導と言いながら自分自身の復習と心掛けてます)

この日は、子供1名、七段2名、六段1名、四段2名、熟練初段1名の計7名。

子供はA七段のお孫さん。大人の稽古に混じって一生懸命打ち掛かってくる。
ともかくしっかり真っ直ぐ構えることだけ指導した。

稽古熱心なのは四段の2名。
休憩時間も稽古をつけてくれと言うので休み無し。
五段を目指しているので自分の悪いところを直して欲しいというわけだ。

1)身構え気構え

1人は、しっかり構えないで下段気味に構えている。
もう1人は、相手の正中線から外れて構えている。
つまり相手と剣先で会話しようとしないのだ。
剣先での会話はしないで、相手が動いた瞬間に面に打ち込もうとしている。
あるいは動いた瞬間に出小手を狙って打ってくる。

打とうの「う」を捉えたいのだろうが、先に攻めて引き出して打とうという気構えと、
打とうとしたところを打ってやろうという気構えは似ているようでまったく違う。

けっきょく後者は待ち剣になってしまい審査ではガチャガチャするだけである。
たとえ出小手を決めたとしても「じゃんけんで、たまたま勝った」というのと同じ。
面を打たせて出小手を決めるという理合では無いので見栄えはしないのだ。
また正面打ちも「待つ気」が出るのか勢いに欠ける。
捨て切ってないように思う。

2)自分の打ち間

相手が動いたら打とうとするので、
蝕刃の間から少しずつ少しずつ間合いを詰めてくる。
横から見ていると、足の動きに合わせて僅かながらも頭が前後上下にひょこひょこ動く。
間合いに関係なく「相手が動いたら打って出よう」というのがミエミエ。

私が打つ気を出した際に、動かない(前に出ない)と、
相手の面打ちが届かなかったという場面も数回あった。
動いた瞬間を打とうとしているので(こちらがわざと)動かないと空を切るわけだ。

相手が動いたら打とうとするのでは無く、自分の打ち間で打つこと。
それにはしっかり打てる「自分の打ち間」がわかっていないことにはどうしようも無い。

相手が止まっている場合は、実際の打ち間は驚くほど近いもので、
自分の竹刀の先革が相手の鍔の間際までに近づかないとしっかりとは打てないものなのだ。
(これは5年近く継続して師匠に指導してもらっている大切なことだ)

止まっている相手を打つ間。次は前に出た相手を打つ間。そして相手を動かして打つ間。
これらの打ち間はそれぞれ状況によっても違うが、まずは止まっている相手の面を、
体勢崩さずしっかりと打てるのが基本である。

3)勢いで打とうとすること

止まっている相手を打つ稽古でも、勢いで打つ癖がついていると、
遠間から、左足を継いで、もしくは右足を追い越して打ってしまうことが多い。
自分の打ち間がわかったなら、構えて打ち間に入るまでは静かに入り、
いったん打つ準備を完了させてから打つのが大切な基本稽古である。
(これも継続して師匠に指導してもらっている重要な稽古である)

また、勢いで打つ癖の者は、たいていが前傾して打ってしまう。
前傾すると、打ってくるのが早めにわかるので対処し易い。
そればかりか体勢が崩れるので次の技に移れない。
身体が伸びきってしまうので返し胴や摺り上げ面の餌食になり易い。

そういうことを23日に説明した。
なかなか理解は難しいだろうが少しでも身につけて欲しいものだ。


(12月23日の生駒市武道場、往馬玄武会の稽古納め)
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