サバゲ用カスタム電ガンの偽装布縛り用
このようにループにもなる。
何故ループかというと、手首を通して
多くの斧などに手貫緒用の穴が開いている
ナイフの下げ緒は主目的はシースからナイ
なぜ試斬で刀を曲げるのか。
それは理由はいくつかあり
ます。
まず第一に、上図の青線の
ように刃筋が立っていない
こと。
刃筋はわずかにずれるだけ
でも振り下ろしの際に刀身
に横からの力が
加わります。その重さ約2トン。
いくら頑丈に鍛え上げられ
た鋼鉄の日本刀であっても、
平な物差しのように薄く造形
された物であるので、横から
の力が加わったら、刀身自体
がそれに耐えられる道理が
ありません。
結果、弱い刃先によじれの
力が加わり、
刃こぼれや刃まくれを生じ
たり、刀身自体にプロペラ
のようなよじれ曲がりを発生
させます。
第二に運刀の軌跡が「しゃくり」
になっていること。
つまり、刃筋が立っていても
刃筋に沿った運刀、刃波の刀
線が通っていないということ。
上図の赤線がそれ。
これは実はこういう切り方も
高度な武技では存在します。
それは土佐英信流の奥伝の霞
という業での斬り方がまさに
こうしたもので、鉢の底をさ
らうような刀線の軌跡で二太
刀目を運刀させて敵の甲冑の
脛当ての下の隙間を地を這う
ようにして斬ります。
しかし、それはあくまで刃筋
を立てての運刀なので、上図
の赤線でどんどん刃が寝て行
く巻き込み現象による刀身寝
かせ状態とは異なる。
運刀の軌跡だけ見たら同じに
見えるかもしれませんが、
全く別物です。
斬るための曲線軌跡は、日本
刀による武技について考察し
ている人は知っているでしょ
うが、刀は上から切り下す時
と逆袈裟で切り上げる時には
別な物理的定理が働きます。
これは人体との関係性におい
て。
上からの切り下げで刃筋を立
てたまま刀を止めることなく
今度は左右逆に袈裟を連続で
切り下してみる。
両者は連続して繋がらず、必
ず一旦棟側から振りかぶる物
理動作になります。
ところが、逆袈裟の場合は、
刃筋を立てたまま∞の軌跡を
描ける。
これを万字と呼ぶのですが、
両手だろうと片手だろうと、
逆袈裟のみは途切れること
なく一筆書きで刀を振り回
せる。
土佐古流の受け流しなどの
刀法も、この逆袈裟の運刀
軌跡の物理定理を一部援用
して刃を返すことなく運んで
そのまま途切れずに受け流し
てからの円弧軌跡で斬撃する
技法です。
しかし、上からの連続袈裟に
限っては、下から上への運刀
では一旦立っていた刃筋を終
了させて再度また刃筋立ての
運刀動作をしないと二連続の
袈裟切りはできません。
これは宇宙の法則なので誰が
やってもできない。たとえ万
能の神でも三次元世界の地球
上ではできない。
上からの袈裟は独立している
のです。
ゆえに慣性としての補正刃筋
立てがやりにくい。
手の内がガチガチだったり、
逆に柄手が緩みっぱなしだっ
たり、途中で茶巾絞りなどと
いうことをやると上からの袈
裟では確実に刃筋が狂う。
絞って手の内は締めるのです
が、刀の柄には回転が一切
加わらないように操作する
のです。
この上からの袈裟切りの時に、
運刀軌跡にしゃくりが生じて
もその軌跡
に沿って刃筋が立っていれば、
フックナイフで木を削ったり
スプーンでプリンをすくうよ
うに日本刀でも物は切れます。
しかし、大抵は、本人はそう
いう軌跡を土佐古流の特殊斬
りのように狙ってやったので
はなく、真っすぐ直線的に斬
ろうとしていながら両腕の関
係の理解に乏しいため、振り
下ろせば下ろすほどに軌跡が
内向してしゃくり現象を発生
させているのがほぼ全てです。
そして、その際には刃筋は
どんどん寝てしまって平打ち
になっている。
これでは刀を曲げてしまうの
は当たり前のことです。
人体構造から、右上からの
左袈裟切り下ろしの際にこ
の現象が多く観られる。
それは、手の内を絞り込ん
だりして刀身を自分で回転
させてしまっていることと、
前述した左右の肩の位置と
関節の左右別々な動きに刀
が同調せず、進路が進むた
びに軌跡が狂い、刃筋が寝
て行く現象が起きているの
です。
もう一つ、刀曲げをやる人
たちに共通する大きな悪し
き要素があります。
それは、振り下ろしの真横
から見た軌跡。
「天井を掃くように刀は切先
から動いて真円に振る」とい
うのは嘘なんです。
円運動などでは日本刀は切れ
ない。
真実は放物線の円弧なんです
よ、円弧。弓のような。真横
から見たら。
つまりサークルではなくスクェ
アに刀は振るんです。
これは運刀の技術、剣術に関
する領域になるので、機会が
あれば別枠で。
パスワード付カテゴリーでは
解説していますが、一般公開
は避けたいと思います。諸兄
におかれては、ご自身が師事
して就いた先生に詳しくは習
ってください。
私は先達から教えられたこと
なので、同門には伝達します
が、一般的には誰にでも伝え
はしません。
私が公開するのは、ごく当た
り前の物理現象のカラクリに
ついての説明のみです。こう
やるとこうなるのが当然の理
ですよ、という程度の。
では、その悪しき物理現象を
発生させないためにはどうす
るか、というのは術技に踏み
込むことなので、それは各人
で先生から習うか、ご自身で
能々工夫されて研究なさって
ください。
私は刀を曲げたことがありま
せん。
それは空気斬りの素振りの際
に師匠から曲げない正しい斬
り方を徹底的に仕込まれて、
自分でも努力したからです。
稽古の際には師匠の怒声は
しょっちゅうでした。怒鳴る。
「誰がそんな切り下しをやれ
と言ったか!」と。
時には竹刀で足や脚や肘を
ひっぱたかれます。
今、かつての私の道場の後輩
で全日本大会で日本一になっ
た人によると、「今の時代
それをやると誰も来なくなっ
ちゃう」とのことです。
私個人は昭和の人間なので、
そうしたことは全く苦になり
ませんでした。
怒鳴られるのは自分が間違っ
た事をやっているからであり、
それを正してまっとうなこと
に導いてくれる指導において、
師が弟子をどやしつけたり
するのはごくごく当たり前の
指導だと私は思います。何が
体罰主義反対か。甘ったれる
な、と。
どなられたり引っ叩かれたり
する位が何だ、と。命が獲ら
れることではない、と。道場
は死地ではない、と。
旧軍のようないじめパワハラ
体罰でもない、と。はき違え
るな、と。
そうした師匠の厳しい指導に
よって正しい道に明かりが見
えてそこに進めるのだから、
これほど得られるものが大き
い事はありません。
結果。
私はこれまで一度たりとも刀
を曲げたことは無い。これが
現実です。
現実は雄弁に真実を物語る。
キンキンに刃のついた刀での
抜刀納刀においても私は手を
切った事が一度も無い。
これ、師匠の指導のおかげ。
私は二番弟子ですが、斎戒沐
浴して起請文を師匠に差し入
れたのは、本気で師に就いて
勉強しようとしたからです。
よく師匠は他の弟子たちに口
にするそうです。「あいつは
ただの弟子ではない」と。
転居により師の道場を離れて
20年経ちますが、今でもしょ
っちゅう私のことを師匠は
道場で口にすると同門同僚
から伝え聞いています。
また、私の刀の鞘の鯉口周辺
と鞘袋の内側はまったく傷ん
でいません。
万余の抜刀納刀を繰り返そう
とも。
鯉口が傷まないのは、それは
正しい鞘握りと抜刀納刀の際
も鞘なりの刃筋が立っている
から。
そうしたことは私自身がやっ
ていることですが、それらも
師匠から叩き込まれたことを
正確にやっているだけのこと
です。
私の武技の技術は私一人で得
たものではない。
「狭き門から入れ」。
聖書の言葉ですが、元々はクリ
スチャンの家の人で普段はいつ
もニコニコして冗談が服を着て
歩いているような師匠とはいえ、
指導の際には渇!ということは
やります。
武技というものも、ナァナァの
ベタベタではなく、狭き門から
技法錬磨を行なわないと光る
ものに近づくには遠回りになる
かと思います。
これは門閥としての門ではなく、
技術上の中身のこととしての
狭き門として。
そして、武技とは、正確で正し
い技法こそが、より安全でわが
身から危険を遠ざけるのです。