2020/10/25 礼拝説教
【テーマ】 一つとされた教会
【説教題】 「召しにふさわしく歩む人」
【聖書箇所】 エペソ4:1-6
4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
4:4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
4:5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。
○ エペソ人への手紙でパウロは教会はキリストの体であると言っています。その教会はユダヤ人と異邦人も同等の家族として構成されています。奥義であったキリストの十字架の贖いは人々を救うだけで無く、教会を生み出し、教会は悪魔も怖れる存在となっているのです。その教会には当然神のご計画があります。ここ4章からはいよいよその教会を建て上げていくための実践的な部分に入ります。
Ⅰ.私たちは召されている
A.囚人という召し
1.今日のテキストの最初は さて と、「話は変わって」という感じに聞こえますが、ここはむしろ、「というわけで」「それゆえ」という言葉の方が良いでしょう。また、パウロは 主にある囚人 と「囚人」という言葉で自分を紹介します。それは彼が主に召されているという自覚からくるのです。
2.彼は異邦人のために召され、異邦人のために囚人とされているというのです。彼は あなたがたに勧めます と柔らかく言っていますが、囚人じゃなくて監督なら「あなた方に命じる!」と厳しく言ったかも知れません。しかし、謙遜に語るパウロの言葉を聞いて、自ら実行しようとしてくれる事を望んでいるのです。
B.召しとは?
1.彼は召しを感じているのですが、召しとは何かを知らねばならないと思います。多くの人は「召し」は牧師にだけ与えられたものと思いがちです。もちろん「牧師として召された」「宣教師に召された」と言いますが、本来召しは全てのクリスチャンに与えられたものです。
2.罪の世界から召し出されたということです。つまり救いが召しです。そして、救われた者には神の願う生き方をするのが当然なので、神の望まれる生き方をすることが召しなのです。
Ⅱ.召しにふさわしく歩め
A.聖い生き方が望まれている
1.召しが全てのクリスチャンに対してあるのですから、 あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい というのは当然全てのクリスチャンのことで、「私は関係ない」という人はいません。
2.救われたということは、未信者に対して模範となる生き方をするということです。しかし、何も人間として完全であることをいうのではありません。罪に対して敏感で、罪を嫌う生き方をし、神を愛して生きることで良いのです。つまり、神を礼拝する、賛美する、祈るなどといったことです。
3.そしてパウロはクリスチャンの品性を言います。 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれ と書いていますが、この言葉はガラテヤ5:22-23に出てくる「御霊の実」と合致するではありませんか。このような品性をもつようにといいますか、クリスチャンはすでにその品性の種を持っていると言います。それを芽生えさせ成長させることを願っているのです。
B.信仰は歩くこと
1.イエスを信じて洗礼を受ければ何かしら天国が保証されて安心という人がいます。果たしてそうなのでしょうか? 洗礼を受けるかどうかは別として、イエスを信じれば救われるのですが、勘違いしないで欲しいです。信じるというのはイエスの言うことを聞くということであり、いのちをかけてイエスに着いていくということです。
2.信仰とはそこでゴールしたのでは無く、スタートしたのです。歩き始めたのであり、信仰はてくてく歩き続けるものなのです。やめないことです。聖書通読が上手くいかなくてもまた読み出せばいいのです。あまり祈ってなかったなら、また祈ればいいのです。そうする内にあなたの信仰は人にも見えてくるのです。あなたからキリストが見えるようになるのです。歩き続けることです。
Ⅲ.御霊による一致を保て
A.一つ、一人
1.4-5節には 一つ という言葉が5回も出てきます。何が一つなのか確認しましょう。 召しの望み からだ 御霊 信仰 バプテスマ です。そして、 主はひとり すべてのものの父である神はただひとり と主は「ひとり」だと言っています。だから 御霊による一致を熱心に保ちなさい となるのです。
2.ユダヤ人も異邦人もなく、皆同じ神の家族として召され(救われ)一つのからだ、教会とされたのです。色々な人、立場や社会的地位、学歴などそういうものは違うのに、信仰もバプテスマもなんら変わらない、平等に一つです。これが教会であり、4-6節に 御霊は一つです 主はひとり 父である神はただひとり と三位一体の神が語られています。神はお一人、教会も一つ、神と教会に一致があるように、教会の横の繋がりも一致があるのです。
B.一致を保つ
1.神のそうした原則はみんなに与えられていますが、この世に長らく染まってきた私たちはそう簡単に一つになれないのも事実です。何しろ、みんな違うのですから。夫婦が一つだと聖書で言われてもそこには互いを受け入れ、愛し、尊敬するという努力があって実現するように、教会も同じです。
2.三位一体の神である父なる神と子なる神、聖霊なる神はそれぞれ働きが違うのに、完全にお互いを受け入れ、愛し、尊敬しておられるのです。だからこそ三位一体なのです。私たちは信仰によって、聖霊に助けられて努力することでこのすばらしい一致を持つのです。パウロは 御霊による一致を熱心に保ちなさい と言っています。
★ 神が私たちを救ってくださったことでできた教会はすでに霊的に一致が与えられています。私たちは聖霊に助けられてその一致を保っていくのです。そのために互いに仕え合うのです。
【テーマ】 一つとされた教会
【説教題】 「召しにふさわしく歩む人」
【聖書箇所】 エペソ4:1-6
4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
4:4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
4:5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。
○ エペソ人への手紙でパウロは教会はキリストの体であると言っています。その教会はユダヤ人と異邦人も同等の家族として構成されています。奥義であったキリストの十字架の贖いは人々を救うだけで無く、教会を生み出し、教会は悪魔も怖れる存在となっているのです。その教会には当然神のご計画があります。ここ4章からはいよいよその教会を建て上げていくための実践的な部分に入ります。
Ⅰ.私たちは召されている
A.囚人という召し
1.今日のテキストの最初は さて と、「話は変わって」という感じに聞こえますが、ここはむしろ、「というわけで」「それゆえ」という言葉の方が良いでしょう。また、パウロは 主にある囚人 と「囚人」という言葉で自分を紹介します。それは彼が主に召されているという自覚からくるのです。
2.彼は異邦人のために召され、異邦人のために囚人とされているというのです。彼は あなたがたに勧めます と柔らかく言っていますが、囚人じゃなくて監督なら「あなた方に命じる!」と厳しく言ったかも知れません。しかし、謙遜に語るパウロの言葉を聞いて、自ら実行しようとしてくれる事を望んでいるのです。
B.召しとは?
1.彼は召しを感じているのですが、召しとは何かを知らねばならないと思います。多くの人は「召し」は牧師にだけ与えられたものと思いがちです。もちろん「牧師として召された」「宣教師に召された」と言いますが、本来召しは全てのクリスチャンに与えられたものです。
2.罪の世界から召し出されたということです。つまり救いが召しです。そして、救われた者には神の願う生き方をするのが当然なので、神の望まれる生き方をすることが召しなのです。
Ⅱ.召しにふさわしく歩め
A.聖い生き方が望まれている
1.召しが全てのクリスチャンに対してあるのですから、 あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい というのは当然全てのクリスチャンのことで、「私は関係ない」という人はいません。
2.救われたということは、未信者に対して模範となる生き方をするということです。しかし、何も人間として完全であることをいうのではありません。罪に対して敏感で、罪を嫌う生き方をし、神を愛して生きることで良いのです。つまり、神を礼拝する、賛美する、祈るなどといったことです。
3.そしてパウロはクリスチャンの品性を言います。 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれ と書いていますが、この言葉はガラテヤ5:22-23に出てくる「御霊の実」と合致するではありませんか。このような品性をもつようにといいますか、クリスチャンはすでにその品性の種を持っていると言います。それを芽生えさせ成長させることを願っているのです。
B.信仰は歩くこと
1.イエスを信じて洗礼を受ければ何かしら天国が保証されて安心という人がいます。果たしてそうなのでしょうか? 洗礼を受けるかどうかは別として、イエスを信じれば救われるのですが、勘違いしないで欲しいです。信じるというのはイエスの言うことを聞くということであり、いのちをかけてイエスに着いていくということです。
2.信仰とはそこでゴールしたのでは無く、スタートしたのです。歩き始めたのであり、信仰はてくてく歩き続けるものなのです。やめないことです。聖書通読が上手くいかなくてもまた読み出せばいいのです。あまり祈ってなかったなら、また祈ればいいのです。そうする内にあなたの信仰は人にも見えてくるのです。あなたからキリストが見えるようになるのです。歩き続けることです。
Ⅲ.御霊による一致を保て
A.一つ、一人
1.4-5節には 一つ という言葉が5回も出てきます。何が一つなのか確認しましょう。 召しの望み からだ 御霊 信仰 バプテスマ です。そして、 主はひとり すべてのものの父である神はただひとり と主は「ひとり」だと言っています。だから 御霊による一致を熱心に保ちなさい となるのです。
2.ユダヤ人も異邦人もなく、皆同じ神の家族として召され(救われ)一つのからだ、教会とされたのです。色々な人、立場や社会的地位、学歴などそういうものは違うのに、信仰もバプテスマもなんら変わらない、平等に一つです。これが教会であり、4-6節に 御霊は一つです 主はひとり 父である神はただひとり と三位一体の神が語られています。神はお一人、教会も一つ、神と教会に一致があるように、教会の横の繋がりも一致があるのです。
B.一致を保つ
1.神のそうした原則はみんなに与えられていますが、この世に長らく染まってきた私たちはそう簡単に一つになれないのも事実です。何しろ、みんな違うのですから。夫婦が一つだと聖書で言われてもそこには互いを受け入れ、愛し、尊敬するという努力があって実現するように、教会も同じです。
2.三位一体の神である父なる神と子なる神、聖霊なる神はそれぞれ働きが違うのに、完全にお互いを受け入れ、愛し、尊敬しておられるのです。だからこそ三位一体なのです。私たちは信仰によって、聖霊に助けられて努力することでこのすばらしい一致を持つのです。パウロは 御霊による一致を熱心に保ちなさい と言っています。
★ 神が私たちを救ってくださったことでできた教会はすでに霊的に一致が与えられています。私たちは聖霊に助けられてその一致を保っていくのです。そのために互いに仕え合うのです。